Introduction-03
狭小な部屋の中、旧時代然とした壁掛け時計の、その秒針を振る索漠とした音だけが、やけに響く。
静かな夜だった。
必要最低限の家財が四隅に配されるのみで、彩りを加える調度の類は、一切存在しない。金銭豊かならざる者の、典型的な部屋である。唯一、壁際に鎮座する本棚だけが、主の財産なのであろう。本棚は、紙製の書籍が贅沢品となった現代において、若者の部屋から消えて久しい。
ここは当然、大地母神『マグナ・マテル』の庇護する異世界『エレウシス』……ではない。社会人2年目、最上 健太が暮らす、家賃7万円のワンルーム アパートだ。
「これで設置完了、っと」
手の甲で額の汗を拭いながら、健太は、新しくこの部屋の財産となった白い物体を愛おしげに眺めた。物体は、全体的に丸みを帯びたフォルムで、長さ2メートル、深さ40センチメートル程の浴槽に、楕円形の蓋が取り付けられたような形をしている。言い回しを変えれば、“丸っこい棺桶”である。
しかし、“丸っこい棺桶”に見える物体は、科学技術の粋を結集して製造された最先端機器、仮想現実デバイス『Gnosis』であって、浴槽でもなければ小洒落た寝台でもなく――睡眠導入システムが組み込まれており、高性能寝台としても利用できるのだが――、ましてや棺桶ではない。仮想現実デバイスとは、人間の脳から発せられる神経パルスを、それらが肉体に伝達される前に横取りし、コンピューター言語に変換する装置だ。神経パルスの完全解読は、今世紀最大の科学的成果と言われている。
『Gnosis』は、世界最大の複合企業である黒円グループが総力を挙げて制作したオンライン ゲーム『Raison D'etre Online』(レゾン・デートル オンライン)専用の仮想現実デバイスであり、健太の購入した全身格納方式モデルで、彼の月収の6割を超える値段がした。それでも、装置に込められた最先端技術の数々を慮れば、驚異的な安さであった。ゲームのサービスインを1週間後に控えた今日、ようやく健太のもとに届いた新品である。ちなみに、全身格納方式モデルは、頭部限定格納方式モデルの2倍以上の価格であるが、半数以上のユーザーは、安全性と機能性で優れる全身格納方式モデルを選択した。
「あとは、セーフティの設定と動作試験か……」
健太の手に持った鉛筆大の汎用端末からは、“仮想ペーパー”がホログラムとして投影され、中空に『Gnosis』の取り扱い説明書が表示されていた。健太がホログラムの投影されている空間を指でなぞると、本のページを捲るのと違わぬ動きで、“仮想ペーパー”が捲られる。紙の本が贅沢品と化したのは、この“仮想ペーパー”技術の発展によるところが大きい。
3D映像投影技術の進歩に伴い、投影機は小型化され、ホログラムも様々な質感をリアルに再現できるようになった。同じく急速に実用性を高めていった空中動作認識インターフェースと組み合わせることによって、何もない空間に“仮想的な紙媒体”を生み出す技術が確立されるまでに、そう長い時間は掛からなかった。読書手段として元々ある程度のシェアを得ていた電子書籍リーダーが、“仮想ペーパー”の登場によって、爆発的に普及したのは、もう30年以上も前の話である。
健太は、手に持った汎用端末を壁面に固定し、『Gnosis』の取り扱い説明書に記載されている最後の工程に取り掛かった。各種安全管理機能の使用準備が、それである。
完全没入型の仮想現実デバイスを、一般家庭に提供し、一般家庭で運用するにあたっては、デバイス使用中の防犯や防災、一般家庭のIT設備不全によるリスク、利用者の身体管理などの分類で、多くの問題が提起されたのだが、それらの大半は、高度に成熟した社会インフラによって、解決可能なものばかりであった――当然、『Gnosis』としても数多の施策を実装しているが――。
例えば、デバイス使用時の防犯施策については、極論してしまえば、考える必要すらない。現代の先進国においては、突発的な事故、事件を除けば、あらゆる犯罪行為の90パーセント以上が事前に“検知”され、実際に犯罪が発生すれば、付近の“対人制圧ロボット”を仮想現実デバイスで遠隔操作する事によって、99パーセントを現行犯逮捕できる。全ての公共エリアは、超望遠レンズを搭載した人工衛星や、おびただしい数の監視カメラによって、常に見張られており、人々の行動は、社会心理学や犯罪心理学、人間工学などを応用したアルゴリズムで解析され、犯罪行為に奔る兆候が見られる人間は、“対人制圧ロボット”の追尾対象となる。このような世情が、そもそもの犯罪件数を激減させ、数少ない犯罪行為に関しても、その未然阻止率と検挙率を高めていた。
同様に、一般家庭のIT設備不全リスクについても、少なくとも日本での対策は、ほぼ不要であった。ネットワークにしても電源にしても、それらは、何系統にも冗長化された“公共ケーブル”から非接触型無線送法で供給される。全国に“公共ケーブル”が敷設されて、既に10年以上が経つが、これまでの累計障害発生時間は、0秒である。最早、有線のネットワークや電源は、骨董品に等しい。
社会インフラに全く依存できない部分――公共エリアであれば話は別だが――が、利用者の身体管理の機能である。
まず健太は、『Gnosis』側面から、30センチメートル四方の直方体型の空き箱を引き出すと、液体入りのビニールパックを格納し始めた。彼がせっせと取りつけている物体は、点滴で使われる輸液製剤と同様のものである。ゲームのプレイ中、意識を失うなど何らかの理由でデバイスから離脱できなくなった場合に備えて、『Gnosis』には、約2週間分の超高カロリー輸液が取り付けられるようになっているのだ。
2週間分の輸液がデバイス本体に付属していたのは、健太の懐を大変に救済したのだが、それはまた別の物語であり、永劫語られることはないだろう。
次に健太は、輸液格納ボックスの傍にあるボタンを長めに――塩基配列をキーとした生体認証を実施する為だろう――押下した。すると、ボタンから離した指先に追従するようにして、『Gnosis』側面からカード読み取り装置が跳ね出してきた。健太は、別段感じ入った素振りを見せるでもなく、あらかじめ用意しておいた“国民カード”をリーダーにかざす。「ピッ」という乾いた電子音と共に、塩基配列の照合処理の進捗表示がホログラムとして投影される。
照合がエラーなく終了すると、ホログラム映像が、パーソナル データ登録許諾の応答要求画面に切り替わった。“仮想ペーパー”と同様の技術である。ひとしきり応答要求画面を見つめていた健太は、[同意します]と表示された空間を指先で叩いた。
ホログラムとして投影された応答要求画面上で、健太がいくつかの設問に答え、暗証番号――生体認証が当たり前となってからも、複数要素の認証を必要とするセキュアなシステムにおいては、未だに根強いシェアを持った認証方式――の入力を正しく完了すると、ホログラムは、音もなく消えた。
《……国民カードの情報を登録しました。最上 健太 様を本機のオーナーとして登録します》
柔らかな女性の声で、『Gnosis』が報告する。
『Gnosis』に備えられた安全管理機能で最も重要なのが、バイタル サインの計測監視だ。
デバイス接続中のオーナーの心拍数や呼吸数、血圧、脳波などの所謂バイタル サインを計測し、異常が認められた場合には、黒円グループの『Gnosis』管理センターに緊急救助要請が自動発信される。その際、オーナー情報として、身体データから病歴、直近数件の健康診断結果といった情報が添付されるのだが、一々ユーザーが情報を入力したのでは、面倒だし、何より正確性が担保できない。そこで、“国民カード”が利用される事となったのである。
ちなみに、“国民カード”とは、文字通り全国民に配布されるカードなのだが、カードに記録される情報は、多岐に渡る。先述の通りの健康管理用のデータから、12歳以上の国民が原則として毎年実施する“統一能力査定試験”の結果、戸籍情報、さらにはDNAの塩基配列までが、厚さ1ミリメートルに満たない手のひらサイズのカードに含まれているのだ。
1ユーザー1キャラクターの制限が設けられた『Raison D'etre Online』では、ゲーム キャラクターの容姿、および初期能力にまで、“国民カード”の情報が反映される。自分自身の分身を使って仮想世界で冒険をする、という開発コンセプトによる決定だったらしいが、世間からの反発は大きかった。だが、そういった反対派の声も、一民間企業の領分を遥かに越えた巨大な権勢を持つ黒円グループの、その威令によって、封殺されたようだった。
健太は、“国民カード”の利用に反対している層の人間ではない。もちろん彼も、キャラクターの容姿において、カスタマイズの自由度が大きく損なわれる点については、わりあい残念に思っていたし、現実世界の面影を、1千万もの人間が利用するネットワーク上に晒す事に対して、抵抗感も持っていた。
しかしながら、“統一能力査定試験”の結果が反映されるという点に関しては、むしろ自分の点数にそれなりの自信もあった為、彼は歓迎しており、その1点のあった故に、彼は、賛成派に回ったのだ。
最上 健太という人間は、数年前までは、俗に言うゲーマーという存在であり、いくつかのMMORPG――数千、数万のユーザーが、同時に共通のゲーム世界で遊べるオンライン版ロール プレイング ゲーム――をプレイしていた。だが、ゲーマーとしての彼は、2位集団にも取り付けない、その他大勢の中流プレイヤーの一人であった。
費やした時間だけが絶対的な優位性となっていたMMORPGにおいて、彼が上流に到達できる目はなかった。いつしか彼は、オンラインで他人と競い合うゲームから距離を取るようになっていた。ゲームをやらない人間からすれば実に滑稽な事だが、健太は、自分自身を負け犬だと思っていた。
彼が、完全にゲームに対する興味を失った訳でない事は、彼が、ゲーマー御用達のオンライン情報サイト『Gamers World.com』を定期的に閲覧していた事からも明らかである。そして、彼が出会ったのは、約半年前に掲載された、とあるインタビュー記事。『Raison D'etre Online』のプロデューサー、川邊 直人氏へのインタビュー記事であった。
ゲーマー時代の最上 健太は、思惟の奥底で絶えず叫び声を上げていた。負け犬の遠吠えを木霊させていた。「廃人以外にも、最強の一角を狙えるチャンスをよこせ」と。『Raison D'etre Online』は、彼の、負け犬達の待ち望んだゲーム コンセプトを掲げた作品であった。健太が『Raison D'etre Online』に惹かれたのは、太陽が東から昇って西に沈むのと同じくらいの必然の帰結である。
しかしながら健太は、『Raison D'etre Online』で自分が最強になれるとは考えていない。“統一能力査定試験”の結果が良いとは言っても、国民全体で見れば、上には数百万を超す名前が連ねられている。プレイヤーの能力が色濃く反映されるのであれば自分が最強である、などと考え至る程には、彼は“こじらせて”いなかった。
全ての準備を終えた健太は、壁面に固定したままになっていた汎用端末を取り外すと、“片手操作モード”で端末のホログラム出力を『Gnosis』の遠隔操作画面に切り替えた。
《Welcome, Great Knowledge Of the Synapses Infrastructure System!》
青白く発光しながら浮かび上がる歓待の字句は、刹那の後、八方に飛散するようにして消失した。続いて現れたのは、ゲーム内キャラクターの登録画面。初期表示されている仮想世界の自分、ネットワーク コミュニティの用語でアバターと呼ばれる、その仮想世界上の人形は、現実世界の自分の姿と容易に重なった。ただ1つの違いは、頭髪の有無である。
(ハゲたら俺、こんな感じになるのか)
最先端の人体モデリング技術によって、己の人生が悲劇的な結末――頭髪の全損という結末――を迎えた場合のシミュレーションをひとしきり堪能してから、健太は、キャラクターのカスタマイズに取り掛かった。
『Raison D'etre Online』では、プレイ開始前からキャラクターの作成が可能となっている。オンライン ゲーム最初の戦い、キャラクター ネーム争奪戦は、既に開戦の火蓋を切られているのだ。
余談だが、前時代までオンライン ゲーム最初の戦いとして、永年ユーザー各位に“楽しまれて”いたログイン競争は、昨今のサーバー、およびネットワーク インフラの機能向上によって、今や絶版物となっている。
さて、キャラクターのカスタマイズと言っても、出来る事は、アバターの頭髪の調整と、簡易的な顔パーツの修正くらいで、体格や性別を大胆に変更する事は不可能だった。現実世界の自分と仮想世界の自分との乖離が激しいと、脳の情報処理に細かなエラーが蓄積され、初期段階で乗り物酔いに似た症状を引き起こす事が分かっている。
こういった現象を解決する為には、高度な“パルス エンコーダー”と“パルス デコーダー”が必要となり、デバイス利用者にも訓練が必要となる。戦闘機や“第三世代型機動装甲兵”の完全没入型仮想現実デバイスでの操作というものは、超高額の軍用オプションを搭載したデバイスを、熟練されたデバイス利用者が操作して、初めて可能となるものだ。それであっても、自我同一性の拡散を防ぐ為の、定期的な精神安定措置が欠かせない。
健太は、アバターの頭髪を、肩口まで伸びた黒い長髪に設定した。『Raison D'etre Online』では、髪の質感や、微細な色差しまでを精緻に設定できるシステムが用意されていたが、審美の感覚に乏しい彼にとっては、無用の長物である。パレットから髪色として“黒”を選択した以外、彼は、数あるパラメータ調整のつまみには手を付けていない。
最後に、アバターの髪型を現実世界の髪型と合わせて――両サイドと上部の髪を後頭部辺りで結い纏め、残りを垂らす所謂ハーフ ポニーテールに設定して――健太は、アバター設定の確定ボタンを押下した。
簡素な白いシャツと茶色のハーフ パンツに身を包んだアバターが、画面上で喜びのポーズを取る。同時に、アバターの足元には、名前入力の為のテキスト ボックスが表示された。
「名前って、結構悩むんだよなぁ」
座り込んで健太は、名前入力用のテキスト ボックスをねめつけながら、時に天井を見上げ、腕を組み、首を傾げ、呻吟の長嘆息を漏らした。彼は、自分で使用するキャラクターに名前を付けるのが苦手だ。名付けに苦心するのが明らかなのだから、事前に候補を列挙しておくなど備えようはあるだろうに、彼は、それをしない。
200までの数を読み上げて、尚余りあるだけの時間を、彼は懊悩たる熟案に費やしていた。熟案の末に、ようやく彼が入力したのは、“黒”という名前である。しかし、無情にもシステムは、2文字以上の名前を要求してきた。
思議の迷宮を抜け出したと歓喜の表情を浮かべていた健太は、しかし再び迷宮に追い落とされる事となり、一瞬で表情を曇らせる。今の彼が短慮の誘惑に抗うべくもなく、“黒”と入力された後ろに“髪”を付け足して、“黒髪”という名前を完成させた。
《同じ名前が既に登録されています。別の名前を入力して下さい》
「どこの誰だ、いい加減な名前を付けやがって!」
入力した名前“黒髪”が、既に使用されているというシステム メッセージに対して、自分の事を棚上げした非難の言葉を浴びせ掛けた健太は、三度熟考の迷路に立たされていた。彼は、“黒”という文字の後に、何らかの単語を付け加える事で、迷宮攻略の糸口を掴んだらしく、思考の網に掛かった単語を、無作為に検討し始めた。
(“影”、“風”、“十字”、“天使”、“血”。……“黒血”って、何か厨二な感じがして良いな)
健太が目指すのは、厨二的と揶揄される、一部の中高生が好む語感であったらしい。厨二、中二病というスラングは、それが指し示す所の、思春期に見られる自己陶酔的な思考様式や、オカルティズムや特異な自己設定に基づいた人物像を自我の外的側面に嵌め込もうとする精神行為が、現代においても普遍的に存在している事から、世紀を超えて使い続けられている。
健太は、24歳にもなって厨二病に罹患している訳ではない。ただ、そういった世界観が、厨二的であると理解した上で、嫌いではないのだ。ジョークとして面白がっている節もない訳ではない。
《アバター名を“黒血”に設定しました。読み仮名を入力して下さい》
「く、ろ、ち、っと」
《アバターを“黒血”(くろち)として登録しました!
正式サービスは、7/26 の19時から開始されます。現在、ゲームにログオンすることはできません。(アバター操作トレーニングのみ可能となっています)》
(……そうだ、サービス開始は一週間後だった)
キャラクターを作り終えた健太は、『Raison D'etre Online』のサービスインが、今日ではなく来週である事を思い出し、脱力した。
(Gamers World のインタビュー記事を見直して、“小説”も読み返そう。一週間で総復習だな。アバター操作トレーニングも入念にやっておこう)
汎用端末のホログラム出力をオフにすると、彼は、それを無造作に床へと放り投げる。長い息を吐きながら立ち上がると、本棚の置いてある方向へ、健太は体を向けた。