Episode.002-01
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 21:40(UTC + 9:00) ]
延々と広がる銀色の針葉樹林を、黒髪――後頭部で頭髪を一房に結い上げているが、襟足は軽く肩先に垂れ掛かっている――の青年が一人、一定の間隔で白い息を吐き出しながら歩いていた。日も落ちて、縹緲とした月明かりだけが照らす深山幽谷に分け入る彼は、奇異な存在である。
サバイバルの定石では、視界が悪く、危機対処が困難となる夜間に移動する事は推奨されない。冒険家達の大半は、その知識に則って行動している筈で、明かりの乏しい日没後に、夜営もせず探索を続ける冒険家は、異質である。
人々の暮らす村落もない、このような辺鄙な土地に足を踏み入れる人間は、そもそも珍客であった。そして、多くの場合、それは冒険家である。
故に、朧な月光だけを頼りに森を突き進む彼は、奇異な存在である。樹枝の上で羽を休める梟が、首を傾げながら彼を見つめていた。
黒髪の青年、『Raison D'etre Online』における最上 健太の分身たる黒血は、身に纏った外套の襟首部分を両手で無理矢理に立たせながら、首を竦めた。最高ランクのレアリティ【神格】に分類される『破壊する者の外套』も、防寒着としては、ただの漆黒色をした袖無し長外衣に過ぎない。
完全没入型の仮想世界『エレウシス』においては、従来の主観型仮想世界とは異なり、寒暖の感覚といったものも、如実に再現される。とは言え、生命の危機を感じる程の強烈な感覚フィードバックは、ソフトとハード――ゲーム プログラムと、仮想現実デバイス『Gnosis』の装置――の両面から抑制され、少なくとも既定の設定では、各種感覚フィードバックは、最低レベルで調整されていた。気温に対する感度についても同様であり、既定の設定値であれば、極寒の海に沈もうが灼熱の大地に寝転ぼうが、感じる温度は、殆ど平常時と差はない筈である。
「やっぱり感覚フィードバックの設定戻そうかな……」
先頃、【設定】画面から感覚フィードバックの強度を変更していた黒血は、最初こそリアルな五感、それこそ異世界に迷い込んだかのような感覚に驚嘆し、感動もしたが、30分もしない内に、悔恨の情に駆られていた。
唯でさえ、仮想現実に高い順応性を持った体質である黒血は、システム側が演算し、脳に送り込んでくる“寒い”という感覚とは別に、視覚や聴覚から得られる情報――白雪の降り積もる夜更けの森林、幽かに差し込む月の光を受けて瞬く氷雪、新雪を踏み締める度に聞こえる足元の雪が圧縮される音など――によっても、“寒い”という意識が強まる。ゲームを楽しむ為にリアリティを追求し過ぎて、結果として精神的に疲弊してしまっては、本末転倒というものだ。
他方、仮想世界の肉体には、疲労という物が存在しないのか、歩き始めてから現時点まで、黒血の体に変化らしい変化はない。キャラクターには【スタミナ】というパラメータが設定されているが、【スタミナ】が消費されるのは、戦闘行為や特殊な行動――跳んだり走ったり――を取った場合に限定されるようだ。
黒血が何故に、一人で雪中行軍の真似事をしているのかと言うと、話は20分程前まで遡る。
[ ――『エレウシス』 日本フラグメント―― 7月26日 21:19(UTC + 9:00) ]
黒血を含めた三名は、それぞれが正三角形の頂点となる位置に立ち、腕に嵌めた特殊なブレスレットから投影されているホログラム、『Raison D'etre Online』におけるメニュー画面を見つめていた。
荘厳な神殿に聳える数多の列柱が如く、白銀に彩られた針葉樹が織り成す神々しいまでの木立の中、蒼玉の輝きを溶かし込んだかのように淡く揺らめく蒼白の月明かりが、薄闇に佇む三人を照らす。その様は、まるで厳かなる誓約の儀式のようだ。
「よろしくね!」
絵に描いたかの如し端正な顔立ちに、くっきりと左右対称の笑窪を作り、最果ての万年雪のように濁りない白い歯を見せて笑う彼女は、月と闇と雪とが支配する厳粛なる空間にあって尚、日輪にも似た柔和で煌びやかな気配を漂わせていた。女性の栗色をした頭髪は、うなじが見える位の長さで切られ、簡素に整えられた飾り気のないその髪型は、長身の体躯と相俟って、彼女の美形に一層と洗練された魅力を感じさせる。更に、引き締まった腰回りと、対照的に柔らかで肉感的な隆起を見せる胸と尻は、これ以上ない程に婀娜っぽい女性らしさを強調していた。
茶髪の彼女、ミュリアは、もう一人の女性に一頻り笑い掛けると、今度は黒血の方へ向き直り、喨々としたソプラノの声音を響かせる。
「こっちのフレンド登録、完了したよ」
ミュリアの言葉に対して、頷く事で了承の意を表した黒血は、ミュリアの横に立つ黒髪の女性を見やった。
頭頂部に近い位置で一本に括った黒髪は、丁度、肩甲骨と肩甲骨の中間辺りまで伸び、彼女の頭の動きに合わせて、尻尾のように揺れる。結ばれずに垂らされた左右の髪が、時折吹く寒風に流されると、頭髪の一本一本が、まるで黒曜石を切り出して作られた財宝なのではないかと思わせる程に、燦爛と輝くのであった。
極上の白絹のように一切のくすみ無い肌を月光がなぞり、彼女の周囲だけが、一瞬毎に霊妙な芸術作品として切り取られる。如何な名画を以ってしても、黒血の眼前にあるこの美には、到底敵わないであろう。
薄い桜色の唇に浮かぶ微笑みが、無垢なる聖母の纏いしが如き神聖なる色を帯びて、黒血へと向けられる。黒血は刹那、言うべき言葉を見失うが、すぐに平静を取り戻し、彼女へ声を掛けた。
「じゃあ、リディアさん。こっちもフレンド登録しましょうか」
「うん」
リディアの首肯を受け、黒血が操作を行い、程無くして彼等はフレンドとなった。既に黒血とミュリアはフレンド登録を済ませており、ミュリアとリディアも、先程フレンド登録を終わらせている。つまり、これで三人は、互いにフレンドとなった訳である。
《称号『初回パーティー メンバー』を入手しました》
《パーティー メンバーとの友好度が1ランク上昇しました》
《プレイヤー『リディア』との友好度が【義理】になりました》
《プレイヤー『ミュリア』との友好度が【義理】になりました》
《“宿命クエスト”『目撃者』が更新されました。クエスト情報を確認して下さい》
《“コネクション”『目撃者』を獲得しました》
《“コネクション”『目撃者』のメンバーとの絆ポイントが100上昇しました》
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クエスト名 : 目撃者
種別 : 宿命クエスト
難易度 : ―
説明 : 貴方は、『黒火』の密談の目撃者同士、連絡先を交換した。
これからの方針は、仲間達と決めよう。
達成条件 : なし。(クエスト完了)
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「何か投げ遣りな終わり方……」
自動的にポップアップしてきたクエスト情報の画面を見てリディアが呟くと、黒血とミュリアも同意するように苦笑する。
「さて、これからどうしましょうかね」
一同が放漫な雰囲気に支配されそうになると、場の空気を断ち切るかのように黒血が声を上げた。
「うーん、取り敢えず私は街を目指そうかな。流石に遭難したままじゃ終われないし」
「私も街行きたい! リディアさん、一緒に行こうよ」
街を目指すというリディアに対して、ミュリアが同行を申し出る。二人は、お前はどうする、といった風な視線を黒血に向けた。
「俺は、もうちょっと森を探検して行きます。死に戻れば街に着くと思うし……」
例に漏れず、ミュリアから“死に戻り”の説明を要求された黒血であったが、移動の為に死ぬ――オンライン ゲームでは、大抵の場合、キャラクターが死亡すると自動的に復活ポイントに転送される――という“死に戻り”の概念は、己の意識を没入させた分身を使って行うVRMMOにおいて、女性二人からの支持を得られる筈もなく、黒血は単独行動を取る事になったのである。




