Episode.XXX-01
濃密な闇色をした外套を翻し、艶やかな青毛の巨馬に跨った騎士が、血にまみれた女を睥睨している。平均的な成人男性の2倍はあろうかという上背に、深紅の板金を精巧にして奇怪な形で繋ぎ合せた甲冑を纏い、螺旋を成して突き上げる2本の山羊角を模した兜を被った巨人騎士。兜の隙間から覗く彼の双眸は、幽鬼が鬼火となって燃ゆるが如し、蒼白の淡光を宿した。
絡みつく大蛇の装飾が施された、自らの背丈と並ぶ程の大槍を携え、巨人騎士は悠然と、一歩一歩騎馬を進めた。漆黒の毛並みをした異形の騎馬は、一歩進むごとに墨汁のような黒い靄を中空に漂わせ、川べりの草地を進む。異形の騎馬が踏み締めた芝草が、寿命を加速度的に巻き取られ、枯れ腐る。
「公爵級悪魔、エネミー ランクAの大物が、どうしてこんな所に……」
全身の至る所を切り裂かれ、貫かれ、溢れ出す赤黒い液体に肢体を濡らして、なお魔騎士の眼前に立ち塞がる紅髪の女。やや短めに切り揃えられ、一部が編み込まれた紅色の髪は、艶美でありながら戦士然とした精悍さを醸成し、女の力強い眼差しと相まって、彼女を高潔たらしめた。
女のすぐ後ろには、二人の男が立ち尽くし、そのまた後ろでは、多数の男女が恐怖に身を屈めている。
先刻までは、彼ら彼女らも女戦士と共に戦い、手に入れた力を行使する事に愉悦すら覚えていた。男どもなど、自らを物語の中の英傑と重ね合わせ、知己を得た可憐な少女達に英姿を見せ付けようと、進んで魔騎士に挑み掛かったものである。
彼らは、一流とは言わずとも、自分達が上位の『異探者』であると自負していたし、“大手組織”に属する者として、自分が特別な存在なのだと思い上がっていた。競うように武勇伝を語り、女性陣からの憧憬を得ようと躍起になっていた彼らにすれば、下心の見え透いた“組織間交流”の会場に、招かれざる異形の来客が出現したのは、力を誇示する機会を得たという意味では、僥倖ですらあった。
だが、敵は強大な公爵級悪魔。彼らの不純な蛮勇は、非情な槍撃に打ち砕かれて、愚かな男どもの数名は、冥土に送られた。
狂ってしまった世界では、怪物も死も、最早ゲームの中の一事象ではない。確然たる“現実”だ。
女は、胸腔を無理やり何かで充填されたように息が詰まり、背筋が瞬間的に冷たくなるのを感じていた。絶望に体がすくんでしまったのか、失血による循環不全で生体機能が低下しているのか、女には分からない。手にした長剣を握り直しながら、彼女は、振り返らずに後ろへと指示を飛ばす。
「早く回復を! それから救援はどうなっている?」
「き、救援要請は、既に受諾されて、今こちらに援軍が向かっています!」
片方の男が回復魔術を詠唱している横で、もう一人の男が答える。
「あと数分で――」
状況を伝えようとして、男は言葉を切った。
公爵級悪魔、巨躯の魔騎士が横薙ぎに得物を振り払う。刹那の間に反応した女は、長剣を体の横で垂直に構え、剣の腹を片手で支える。魔騎士の剛力と遠心力で、旋風のような速度でもって振り抜かれた大槍は、防御の上から、いとも容易く女を吹き飛ばした。鉄と鉄とが激突する硬質な音が響く中、全身から幾筋もの血痕の軌跡をほとばしらせ、悲鳴を上げるいとますらなく、女は吹き飛ばされたのだ。彼女が土手に叩き付けられる前に、回復魔術が発動したのは幸運であった。
倒れ込み、起き上がろうとしない紅髪の女を見て、絶望に打ちひしがれ、ただ震えて助けを待つだけと化していた男女のグループから、短い悲鳴が上がる。女の身を案じたのではない。卑しくも、己の庇護者が倒され、身を守る盾が消え失せた事にこそ、彼らは恐怖したのだ。
「これはまた、随分と危機的な状況な事で」
その時、土手の上から男が姿を現した。黒い外套を纏い、緩く結わいた濡れ羽色の長髪を風になびかせて、穏やかな貌をした青年。得物はない。彼は、軽い足取りで土手を下りると、倒れ込む女の横に立った。
「ヒーロー気取ってんじゃねぇよ」
「お前、さっきの……。何をしに来た?」
「状況が分かってないのか。さっさと逃げて助けを呼んで来い」
どこからともなく、力ない、しかし傲岸不遜な男どもの声が上がる。女の背後に逃げ隠れ、我が身だけを守ろうと縮こまっていた集団の中からだろう。
膝を抱え、肩を寄せ合い、震えて動けなくなった人間が、異な事を言うものだ、と失笑した黒髪の青年であったが、しかし、声の方向には一瞥もくれず、ただ巨躯の魔騎士を見つめていた。不思議な事に、先程まで女と共に魔騎士と対峙していた男たちを、その大槍の射程に収めながら、しかし魔騎士もまた、不動のまま黒髪の青年を睨み付けていた。青年と魔騎士の間、およそ10メートル。
数瞬の後、意識を覚醒させた女が、自分の横に見知らぬ男が立っている事に気付き、殊の外――今し方まで気を失っていたとは思えないような――、明瞭な言葉で呟く。
「逃げろ……。私達の手に負えるような相手じゃない。ギルド連合『炎剣レーヴァテイン』の幹部である私で、このザマだ。逃げて、助けを……」
女の台詞を最後まで聞かず、青年は、ゆったりとした一歩を踏み出した。しかし、皆が彼の一挙手一投足を刮目していたというのに、誰一人として、彼の踏み出したる右の足が、地を踏む瞬間をみとめた者はない。青年が歩む動作を開始して、いざ足を地面から離した刹那、彼の姿は霧散した。少なくとも、『レーヴァテイン』の面々には、霧散したように見えた。
青年は、消えた訳ではない。彼の足裏が次に触れたのは、魔騎士の目と鼻の先の地面。瞬きする間に、彼は、人々の注視を掻い潜り、10メートルの距離を縮めたのである。極限まで高められた特殊スキル【瞬身】の成せる業だ。基本スキル【歩法】と【走法】をも極めた人間の【瞬身】は、もはや10メートルの距離など次元の彼方に切り取ってしまう。
魔騎士の眼前に“現れた”青年は、奇怪にたなびく外套の内より【抜刀】し、振り上げられたその刀身は、逞しい異形の騎馬が首を刎ね飛ばす。目で追う事もかなわぬような、尋常ならざる剣速で振るわれた剣は、光の鞭を思わせた。ようやく彼の居所を視覚に捉えた人々は、頭部を失った異形の騎馬が、刈り取られた断面から黒い靄を噴出させた段になって、初めて、彼の手にした光の鞭が、剣なのだと気付いた。
崩れ落ちる騎馬から投げ出され、無防備に自由落下していた魔騎士に対して、黒髪の青年は、振り上げられたままになっていた刃を上段から浴びせ掛ける。揺らがず閃く斬撃の軌跡は、機械的なまでの精確さで魔騎士の喉笛を裂いた。
「グァ、ガ……!」
言語として意味を成さぬ空気の塊を吐き出して、魔騎士は、地面に叩き付けられると同時に、後方へ――黒髪の青年から遠ざかる方へ――転げて逃げる。魔騎士の首筋に刻まれた裂傷からは、彼の眼に灯る青白い鬼火と同じ色をした、液体とも気体とも付かぬ物質が止め処なく流出し、大地に吸い込まれていった。
人間であれば即死している深手も、魔騎士にとっては、片膝を突く程度の損耗にしかなっていないようである。
「俺の確殺判定攻撃でも、流石にエネミー ランクAの大物は、一撃では沈まないか」
言い終わるや否や、ふわりと、突如として青年は、魔騎士の背後に、魔騎士と背中合わせの格好で“降り立って”いた。一拍置いて青年は、振り返る体躯の回転そのままに、水平の右薙ぎを魔騎士に見舞う。彼の刃は、確かに魔騎士の首を切断する軌道で振り抜かれたが、しかし、魔騎士の頭部は、胴体から切り離される事はなかった。つまり、魔騎士に対して、致死に値するダメージは、まだ与えられていないという事である。それでも魔騎士は、痛恨の一撃に激昂の咆哮を上げ、身体を仰け反らせた。
しかし、それは一瞬の出来事。手にした大槍を頭上で回転させながら、魔騎士は反転し、二重の回転力を加えた渾身の一突きを、青年に放つ。左の足を引き半身となり、右の手に持った刃を下段に構えていた青年は、回避の素振りを見せない。黒髪の青年が、魔騎士の大槍に貫かれる光景を、皆は想像した。
獲物目掛けて急降下する飛龍の如く、鋭く振り下ろされた槍先が、青年の心の臓を貫かんとした刹那、青年の体が瞬いたようにぶれて、魔騎士の大槍は地面を穿った。砲弾を撃ち込んだかのように地面を陥没させて、大槍が地に突き刺さっている。黒髪の青年は、突き刺さる大槍の脇に、半身に構えたままの姿勢で佇んでいた。魔騎士の鬼火が如き双眸が、慄然として震えるかのように揺らいだ。
「あのバケモノを圧倒するなんて、アイツは何者だ?」
「凄い……」
「俺達、助かるかも知れない」
九死を排し、一生へと至る僅かな希望を、男も女も、皆が黒髪の青年に見出していた。この状況は、颯爽と敵を倒して、自分こそがヒーローになりたかった男どもにしてみれば、甚だ不本意ではあろうが、今の彼らは、何よりも助かりたかった。
黒髪の青年は、周囲の想いなど気にも留めず、相変わらず穏やかな表情でもって、恐るべき魔騎士を見ていた。豪槍が、薄布一枚を隔てた程度の距離を疾走して、足元の土塊を掘削しても、彼の表情は変わらない。
青年は、軽やかに地面を一蹴りすると、大槍の柄に飛び乗り、さらに柄を足場にして、鋭く跳んだ。大気を突き抜けるような速度で、両膝を抱え込むようにして跳び上がった青年は、さながら黒い弾丸のようであった。彼は、逆胴の形で剣を構えたまま、魔騎士の顔の横を飛び抜け、すれ違いざまに、その首筋に刃を合わせる。合わされた刃は、青年が振り抜くまでもなく、飛翔の勢いそのままに、魔騎士の頸部を断ち斬った。
魔騎士の首を切り裂きながら、5メートルを超える大跳躍を見せた青年は、空中で体をひねると、“何もない空間を蹴って”反転した。再び青年は、目にも止まらぬ速度でもって、上空より魔騎士へと突進する。
「あれは、『終焉の英雄』の……」
青年の戦いぶりを、半ば茫然自失とした様子で眺めていた紅髪の女が、静かに呟いた。
「連ね刃、瞬剣集奏万華鏡!」
魔騎士の背後から飛び掛かった青年は、裂帛の掛け声と共に、燐光を纏った刃を一振りする。しかしそれは、13の斬撃を撚り合せた神域の妙技であり、ただの一振りではない。しかしそれは、一太刀ごとに殺傷力を増す呪いが込められた神秘の奥義であり、ただの13連撃ではない。それは、有体に言えば、神業であった。
蒼白の煌めきを伴って振るわれた剣は、一筋の光の残像を中空に刻んだが、残像は、刹那の内に13の剣閃へとほどけて分かれ、万華鏡の結ぶ鏡像が如き幾何学模様へと変化した。幾何学模様を形成する一辺一辺から、一際鮮やかなりし閃光が溢れ出すと、魔騎士の後背部の甲冑が爆散し、遅れて、魔騎士が両膝から崩れ落ちる。それでも、手にした大槍を支えにして、魔騎士が倒れる事はなかった。
一貫して平静な表情を浮かべていた黒髪の青年が、初めて驚きに口元を強張らせる。魔騎士の肩を蹴って、大きく後方へ伸身の宙返りをすると、青年は、油断なく着地し、正眼に剣を構えた。
「これだけの攻撃を受けて尚、まだ挑み掛かってくるか……」
青年の茶褐色の瞳に映るのは、瀕死の痛撃を受けながらも、両手で大槍を握り締め、相対者――黒髪の青年――へと向き直る魔騎士の姿であった。公爵級悪魔としての矜持か、武人としての誇りか。人々の幻想が生んだ虚構であるはずの“悪魔”は、しかし青年の目には、確たる意思持つ存在として見えた。
(確かに世界は変容してしまった。“悪魔”はかつてのような夢幻の類ではなく、人間と同じ生きた存在……。だとすれば、やはりこれは、“仮想世界での狩り”ではなく、“現実世界での生存競争”、か)
世界の理を書き換え、絶望という名の“悪魔”を解き放った『大規模事象改変災害』から3ヵ月。青年の心奥には、未だ雷鳴の如く遍く響き、鮮烈な印象を保ったまま、彼女の言葉が生きている。
――皆はまた、私と一緒に世界を終焉らせてくれるのか?――