戻ってきた元師匠
雨音共鳴鐘の記録を王立審査局へ届けた翌朝、工房の扉を叩く者がいた。
リゼットは炉の火を弱め、ユアンと顔を見合わせた。約束の客は午後まで来ないはずだった。朝の水路町で、わざわざ訪ねてくる者など、良い知らせを持っているとは限らない。
扉を開けると、灰色の外套を着た老人が立っていた。
白くなった髪。深い皺の刻まれた頬。右手には、昔から使い続けている節くれだった杖。
リゼットの指から、扉の取っ手が滑り落ちた。
「……先生」
老人は目を伏せた。
「久しぶりだな、リゼット」
オルフェン・グラウ。かつてリゼットが弟子入りしていた鐘職人であり、王都でも名の知られた音響工匠だった。
彼の工房で、リゼットは初めて金属の厚みを覚えた。炉の温度を色で読む方法も、鐘の縁を削る角度も、すべて彼から教わった。
けれど、彼は彼女の才能を認めなかった。
女に精密な鐘は作れない。人の心を動かすのは技術ではなく、名声だ。誰の弟子かを忘れるな。
そう言われ続け、リゼットは自分の設計図に名前を書くことさえ恐れるようになった。
「何の用ですか」
声が固くなる。
「君たちの鐘を見た」
オルフェンは工房の中へ視線を向けた。机の上には、二本の記録紙と、雨音共鳴鐘の試作機が置かれている。
「見た、というのは?」
「審査局へ提出された写しをな。ヴァルドが見せてきた」
ユアンが一歩前へ出た。
「あなたはヴァルドと関係があるのですか」
「ある。かつて、あの男に工房を譲った」
「そして、リゼットの工房印を偽造した設計図に署名した」
オルフェンの肩がわずかに沈んだ。
「その通りだ」
リゼットの胸の奥で、炉の火が一気に燃え上がった。
「……先生が?」
「私が確認印を押した。あれが君の設計だと、証明するためにな」
「偽物だと知っていたのに?」
「知っていた」
答えがあまりに早く、リゼットは言葉を失った。
ユアンの手が机の端に触れる。怒りを抑えている時の彼の癖だった。金属の振動を読むように、指先をわずかに動かしている。
「理由を聞かせてください」
「ヴァルドは、君の設計を自分のものとして登録すれば、私の工房を王立組合の筆頭工房にすると約束した。私は……その言葉を信じた」
「私を売ったのね」
リゼットの声は低かった。
オルフェンは反論しなかった。
「君が工房を出た後、私は何度も図面を見直した。雨音と地中の振動を同時に記録する発想は、私には思いつかなかった。君が作ったものだと、すぐに分かった」
「だったら、なぜ止めなかったのですか」
「怖かったのだ」
老人の声が震えた。
「君が私より先へ行くことが。師匠という立場が、技術より先に老いていくことが」
工房の外で、荷車の車輪が石畳を叩いた。遠ざかる音が消えると、室内には炉の小さな唸りだけが残った。
「私は君を見下していた。そうしなければ、君が私の弟子である間は、私の方が上だと思っていられたからだ」
リゼットは握りしめた手を見つめた。爪が掌へ食い込んでいる。
師匠から受けた言葉は、ずっと彼女の中に残っていた。自分は未熟だ。名乗る資格がない。誰かに認めてもらわなければ、何も始められない。
それなのに、その言葉を吐いた本人が、今は目の前で頭を下げている。
「謝罪で済むと思っていますか」
「思っていない」
オルフェンは外套の内側から、古びた革袋を取り出した。中には何枚もの紙片と、青銅製の小さな印章が入っていた。
「ヴァルドへ渡した確認印の控えだ。偽造の手順も、署名を求められた日付も記してある。さらに、彼が危険な採水計画を知っていたことを示す書簡がある」
ユアンが紙を受け取り、指で端を確かめた。
「これは原本ですか」
「私の工房の帳簿から切り取った。改ざんされる前に隠していた」
リゼットは紙片を見た。ヴァルドの名。その下に、地下水路の水を過剰に引き上げれば、王都の外れに新たな貯水池を作れるという計画が書かれている。
利益のためなら、水路の崩落も、町の断水も、彼にとっては計算の一部だった。
「どうして今、ここへ?」
「審査局へ行けば、私も罪に問われる。工房も失うだろう」
「それが怖くて、また黙るつもりでしたか」
「いや」
オルフェンは杖を床へ置いた。
「今度は、君の前で逃げたくない」
リゼットは返す言葉を探した。許すことはできない。けれど、憎しみだけでこの男を追い返せば、彼が持ってきた証拠まで失われる。
ユアンが静かに言った。
「証言する覚悟はありますか」
「ある」
「ヴァルドはあなたを切り捨てるでしょう」
「もう、あの男の工房を守る理由はない」
「組合もあなたを守りません」
「守られたことなど、一度もない」
その言葉を聞いた時、リゼットの中で何かがわずかに動いた。
オルフェンは強い師匠ではなかった。正しい人でもなかった。けれど、過ちを認め、失うものを知りながら戻ってきた。
それを、彼女は見なかったことにできなかった。
「証言の場には、私も立ちます」
リゼットは言った。
「ただし、あなたを師匠としてではありません。私の証人としてです」
オルフェンは顔を上げた。
「分かった」
「そして、これから私の作るものを、あなたの弟子の作品とは呼ばせない」
「分かっている」
「私の名前で作ります」
リゼットの声は、今度は揺れなかった。
隣でユアンが記録紙へ手を置いた。雨は降っていない。それでも、床下の水路から微かな振動が伝わってくる。
オルフェンはその振動に気づかず、ただ二人を見つめていた。
「君は変わったな」
「いいえ」
リゼットは雨音共鳴鐘を持ち上げた。
「変わったのは、私が自分の声を聞くようになったことです」
オルフェンはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
その日、戻ってきた元師匠は、弟子を連れ戻すためではなく、自分の罪を背負うために工房を出た。
そしてリゼットは初めて、過去から届いた手を取るかどうかを、自分の意思で決めた。




