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ようやく、お別れできます〜殿下がお望みなのは私ではないようですので、婚約を辞退いたします〜

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/09/30

王宮の大広間では、夜会も終盤を迎えていた。


貴族たちが談笑する中、一人の若い伯爵令息がフェルディナンドへ笑顔を向ける。


「本日の夜会も見事でございました。オリヴィア嬢のお力添えがあってこそですね。」


その一言に、フェルディナンドは肩をすくめた。


「大げさだ。」


あっさりと笑い飛ばす。


「婚約者なのだから、その程度は当然の役目だろう。」


その場にいた数人の貴族が、わずかに表情を曇らせた。

それでもフェルディナンドは気づかない。


「ですが、式次第の変更や来客の調整まで、オリヴィア嬢がお一人で――。」


「そんなものは誰にでも務まる。」


言葉を遮るように言い切る。


「私が婚約者へ求めるのは、特別な才能ではない。」


一度だけ、隣へ立つセシリアへ視線を向けた。


「例えば、セシリア嬢のように、私を理解し、支えてくれることだ。」


突然名前を出され、セシリアは驚いたように目を瞬かせた。


悪気はなかった。

誰かを傷つけようと思ったわけでもない。

ただ、自分が思ったことを口にしただけだった。


(やっとですわ)


オリヴィア・ローゼンベルクは、心の中で小さく拳を握る。


長かった。

本当に、長かった。

ようやく、この時が来たのだ。


もちろん、その喜びを顔へ出すことはしない。

優雅に微笑み、一歩前へ出る。


「殿下。」


フェルディナンドが、振り返る。


「何だ。」


「ただ今のお言葉で、ようやく理解いたしました。」


静かな声だった。

広間にいた者たちが、自然と会話を止めていく。


「殿下がお望みなのは、私ではなく、殿下を理解し、お支えする婚約者なのですね。」


「ああ、その通りだ。」


フェルディナンドは、迷いなく頷いた。


「私には、そのような婚約者が必要だ。これからは、そのように努めてくれればいい。」


その瞬間、オリヴィアは深く一礼した。


「かしこまりました。」


穏やかに微笑む。


「それでは私は、第一王子フェルディナンド殿下との婚約を辞退させていただきます。」


穏やかな声が広間へ響いた。

その一言だけで、場の空気が変わる。


広間から、小さく息を呑む音が漏れた。


「兄上。」


第二王子 アレクシスが、人垣の間からゆっくりと歩み出た。

誰もが息を呑む。


彼はフェルディナンドの前で立ち止まると、一礼だけして口を開いた。


「そのお言葉は、あまりにも身勝手かと存じます。」


フェルディナンドは、眉をひそめる。


「何だと?」


「兄上は、オリヴィア嬢の気持ちを、一度でもお尋ねになったことがおありですか」


「婚約者なのだ。当然だろう。」


「当然、ですか。」


アレクシスは静かに繰り返した。


「私は、その当然を一度も見たことがございません。」


広間が、さらに静まり返る。


「兄上は、オリヴィア嬢に支えられてきました。」


アレクシスはフェルディナンドを静かに見つめた。


「ですが、兄上がオリヴィア嬢を支えたことは、おありでしょうか。」


フェルディナンドは、言葉を失った。


「私は……。」


返そうとして、止まる。

思い当たらなかった。


オリヴィアが困っている姿を見たことも。

助けを求められたことも。


だからこそ、自分は十分に支えているつもりでいた。

アレクシスは責めるような口調ではなかった。


「オリヴィア嬢は、婚約者です。だからこそ――。」


「いいえ。」


穏やかに言葉を遮る。


「婚約者だからこそ、気持ちを知ろうとなさるべきだったのではありませんか、兄上。」


穏やかな問い返しだった。

だが、その一言で広間の空気はさらに重くなる。


誰も口を開けない。

その時だった。


「国王陛下、王妃殿下のお成りです。」


一瞬で広間の空気が張り詰めた。

重厚な扉が開かれ、国王と王妃が並んで姿を現す。


そのすぐ後ろには、ローゼンベルク公爵アルベルトと、公爵夫人エリシアの姿もあった。


四人はゆっくりと広間へ歩み入る。


国王は居並ぶ貴族たちを見渡し、最後にフェルディナンドとオリヴィアへ視線を向けた。


「……何事だ。」


低く、威厳ある声が広間へ響く。

フェルディナンドは慌てて一歩前へ出た。


「父上、大したことでは――。」


「陛下。」


その言葉を遮ったのは、オリヴィアだった。

静かに一礼し、まっすぐ国王を見つめる。


「少々、お時間を頂戴できますでしょうか。」


国王はしばらくオリヴィアを見つめ、小さく頷く。


「申してみよ。」


「ありがとうございます。」


オリヴィアは、一歩前へ進んだ。

広間中の視線が集まる。

それでも、その背筋は真っ直ぐだった。


「私は本日、この場をお借りしてお願いがございます。」

 

オリヴィアは静かに息を吸った。


「第一王子フェルディナンド殿下との婚約を、辞退させていただきたいのです。」


広間がどよめいた。


「なっ……!」


フェルディナンドが思わず声を上げる。


「違います! 父上、母上! これはオリヴィアが勝手に――。」


「フェルディナンド。」


王妃が静かに名を呼んだ。

その一言だけで、第一王子は口を閉ざす。

王妃は息子を真っ直ぐ見つめた。


「まずは、オリヴィア嬢のお話を最後までお聞きなさい。」


穏やかな声音だった。

けれど、その場の誰もが、王妃がお怒りであることを悟った。


フェルディナンドは唇を噛み、悔しそうに拳を握る。


「……はい。」


ようやく絞り出した返事を聞き届けると、王妃は静かに頷き、再びオリヴィアへ視線を向けた。


「続けてください、オリヴィア嬢。」


オリヴィアは静かに頷く。


「私はこれまで、殿下をお支えできることを幸せだと思っておりました。夜会、式典、来客の調整……それらはすべて、未来の王妃として当然の務めだと考えておりました。」


オリヴィアは一度だけ視線を伏せた。


「ですが、本日のお言葉で分かりました。殿下がお望みなのは、私ではなく、『殿下を支える役目』なのだと。」


ゆっくりと顔を上げる。


「私は、一人の人間として見ていただきたかっただけなのです。」


王妃は静かに息子を見つめた。


「フェルディナンド。」


「……はい。」


「あなたは今まで、オリヴィア嬢へ感謝を伝えたことがありますか。」


フェルディナンドは口を開いた。

だが、思い当たることは一つもなかった。


王妃は小さく息をつく。

その声は変わらず穏やかだった。


「オリヴィア嬢を労ったことはありますか。」


フェルディナンドは俯く。


「……」


「『お疲れ様』その一言だけでも良かったのです。」


返事はなかった。


「それでは、オリヴィア嬢が何をしていたか、知っていましたか。」


「それは……」


言葉に詰まる。


夜会。

式典。

来客の調整。

贈答品の手配。


それらが滞りなく進んでいたことは知っていた。


だが、誰が準備していたのかを考えたことは、一度もなかった。


「フェルディナンド。」


王妃は静かに首を横へ振る。


「知らなかったのではありません。」


王妃は静かに息子を見つめた。


「あなたが、知ろうとしなかったのです。」


その言葉に、フェルディナンドは肩を震わせた。


「陛下。」


静かに前へ進み出たのは、ローゼンベルク公爵アルベルトだった。


一礼し、ゆっくりと口を開く。


「娘はこれまで、殿下のお役に立てるのであれば、それで十分だと申しておりました。」


その声音に責める色はない。

ただ、父として事実を語っているだけだった。


「夜会の準備、式典の調整、来客名簿の確認、贈答品の選定、慈善事業の日程調整。どれも未来の王妃として当然の務めだと、娘は一度も不満を口にいたしませんでした。」


公爵はオリヴィアへ一瞬だけ視線を向ける。


娘は静かに立っている。

その姿に、小さく目を細めた。


「ですが……。」


再びフェルディナンドを見る。


「娘もまた、一人の娘でございます。支えるだけではなく、支えられることもあって良かったはずです。」


広間は静まり返っていた。

誰一人として、公爵の言葉を否定する者はいない。


国王は静かに目を閉じる。

そして、ゆっくりと口を開いた。


「フェルディナンド。」


「……はい。」


「婚約とは、片方だけが支えるものではない。」


その一言は、広間の誰よりも重く響いた。


「この件については、王家とローゼンベルク公爵家で、改めて話し合う。」


国王の宣言に、貴族たちは一斉に頭を下げた。


フェルディナンドだけが、その場で立ち尽くしていた。






数日後――。

王家とローゼンベルク公爵家による話し合いの場が設けられた。


重苦しい空気の中、国王が静かに口を開く。


「話し合いの結果を伝える。」


誰も言葉を挟まない。


「オリヴィア嬢の申し出を受け入れ、第一王子フェルディナンドとの婚約は、本日をもって解消とする。」


静かな宣言だった。

だが、その一言は何よりも重かった。


「……。」


フェルディナンドは俯いたまま、拳を握る。


「……待ってください。」


フェルディナンドは顔を上げる。

ようやく、絞り出した声だった。


「私は……そのようなつもりでは……。」


続く言葉は、出てこない。


何を言えばいいのか。

何を伝えれば、この結果が変わるのか。


もう、自分にも分からなかった。


国王は静かに、息子を見つめる。


「フェルディナンド。」


「……はい。」


「お前はまだ、自分が何を失ったのか、本当の意味では分かっておらぬ。」


フェルディナンドは、答えられなかった。


「陛下。」


ローゼンベルク公爵アルベルトが、静かに一礼する。


「ご決断に、心より感謝申し上げます。」


国王は静かに頷いた。


「オリヴィア嬢。これまで王家を支えてくれたこと、心より感謝する。」


オリヴィアは深く、頭を下げる。


「身に余るお言葉にございます。」


国王の言葉を最後に、その日の話し合いは幕を閉じた。


ローゼンベルク公爵夫妻はオリヴィアを伴い、一礼して部屋を後にする。


「帰ろう。」


アルベルトが娘へ穏やかに声を掛けた。


「はい、お父様。」


オリヴィアは小さく微笑み、その後に続く。




やがて部屋には、国王、王妃、そして二人の王子だけが残された。

重苦しい沈黙が流れる。


フェルディナンドは俯いたまま、動かなかった。


「フェルディナンド。」


国王が、静かに名を呼ぶ。


「……はい。」


「お前は今日、大切なものを失った。」


王の言葉に、フェルディナンドは拳を握り締めた。


「だが、それ以上に忘れてはならぬことがある。」


ゆっくりと、息子を見据える。


「あの日、お前は一人の女性の心を傷つけた。」


その言葉に、フェルディナンドは目を閉じた。


反論はできない。

いや、する資格がないことくらいは、ようやく理解し始めていた。


王妃も静かに口を開く。


「私たちにも、至らぬところがあったのでしょう。あなたに、人を思いやることの大切さを十分に伝えられなかったのかもしれません。」


王妃の言葉に、フェルディナンドは唇を噛む。


「……申し訳、ございません。」


その声は、今にも消え入りそうだった。


国王は静かに頷く。


「その言葉は、これからのお前の生き方で示しなさい。」


「……はい。」


フェルディナンドは深く一礼すると、静かに部屋を後にした。


扉が閉まる。

しばらく、誰も口を開かなかった。


やがて、国王が第二王子へ視線を向ける。


「……お前も心配だったようだな。」


アレクシスは、少しだけ目を伏せた。


「……はい。」


短い返事だった。

王妃は穏やかに微笑む。


「ですが、今はあの子の気持ちを何より大切になさい。オリヴィア嬢には、前を向く時間が必要です。」


アレクシスは静かに頷く。


「承知しております。」


その瞳に焦りはなかった。

ただ、彼女が再び笑顔を取り戻せる日を、静かに願っていた。






数か月後――。


ローゼンベルク公爵邸の庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。


婚約解消の知らせは瞬く間に各国へ広がり、公爵家には国内外を問わず、多くの縁談が届いていた。


けれどアルベルトは、そのどれにも返事をしなかった。


「娘には、まず自分の幸せを考える時間が必要だ。」


その言葉に、公爵夫人エリシアも静かに頷く。



そんなある日。

公務の合間、アルベルトはアレクシスへ穏やかに声を掛けた。


「殿下は、娘をお気に掛けてくださっているようですね。」


アレクシスは、少し驚いたように目を瞬かせた。


「……気付かれておりましたか。」


「ええ。」


アルベルトは優しく微笑む。


「長い付き合いですから。」


少し間を置いて続ける。


「城では肩も凝りましょう。よろしければ、一度我が家へお茶にいらっしゃいませんか。」


アレクシスは一瞬だけ考え、小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます。ぜひ、お伺いさせていただきます。」




約束の日。

アレクシスが持参したのは、豪華な宝石でも高価な贈り物でもなかった。


季節の焼き菓子。

可憐な花束。

そして、一冊の詩集。


「大したものではありません。」


少し照れたように笑う。


「急に大きな贈り物では、ご負担になるかと思いました。お菓子は皆さまで召し上がっていただければ。」


花束へ視線を向ける。


「花は、お部屋に彩りを。」


そして詩集を見つめ、少しだけ照れたように微笑んだ。


「……こちらは、気に入っていただければ嬉しく思います。」


オリヴィアはその心遣いに目を丸くし、ふっと微笑んだ。


「ありがとうございます。」


穏やかな午後が流れていく。

公爵夫妻は少し離れた場所で二人を見守り、やがてそっと席を外した。


残された二人の間に、気まずさはなかった。


紅茶を飲みながら、好きな本のこと。

庭に咲く花のこと。

幼い頃の思い出。


他愛もない話なのに、時間は驚くほど穏やかに過ぎていく。


帰る時間になり、アレクシスは立ち上がる。


「本日は、とても楽しい時間をありがとうございました。」


そして少しだけ照れたように笑った。


「もし、ご迷惑でなければ。またこのように、お話しする機会をいただけませんか。」


アレクシスは少しだけ、視線を落とした。


「オリヴィア嬢のことを、もっと知ることができれば嬉しく思います。」


突然の言葉に、オリヴィアは少し目を見開いた。


けれど、その頬はほんのりと赤く染まり、自然と笑みがこぼれる。


「……はい。」


小さく頷き、優しく微笑んだ。


「私も、殿下のことをもっと知ることができましたら、嬉しく思います。」


二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑み合う。


窓から吹き込む風が、庭の花々を優しく揺らした。

紅茶の香りが静かに漂う。


あの日、終わりを迎えた一つの婚約。


そして今――。

新しい恋が、静かに始まろうとしていた。


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