何も浮かんでいない海
平和主義のナミが、平和を声高に叫ぶデモの奴らに絡まれた。相手はやけに好戦的だった。対話が大事と言うわりに話の通じない連中だった。みんな、みんなとの言葉とは裏腹に、そこにナミは入っていないようだった。彼らは、口々に、平和、平和と言うのだけれど、平和という概念を大切にしてるだけ。ほんとうの平和なんて大切にはしていない。
ナミがすべてを嫌になって、逃げるようにしてこの国を捨てる決心をするまで、さほど時間はかからなかった。未練は、とくにないようだ。
いまナミがどこにいるのか、それは言えない。言ったら、たくさんの人が来てしまうから。
端的に言って、平和なところだ。どこかの国の政治家みたいに口先だけではない平和がここにはある。それを平和と言うんだ。
「ここ、静かだね」
隣に座る男に、ナミがぼつりと言った。男はこの場所で、ナミが最初に出会った住人。古いラジオの修理をして、その日その日をすごしている。
男は手を止めずに、
「ここには余計な音がないからな」
短くそう言っただけだった。
かつてナミを囲んだデモの連中。耳をつんざくような拡声器の音。正義を盾にした鋭い罵声は、ここには届かない。あのとき、ナミの腕を掴んで「お前も叫べ」と迫ってきた奴らの熱せられすぎてむせてしまうほどの体温も、いまは遠い霧の向こうの出来事だ。
男の手元にあるラジオからは、ザーッという音だけ。ただの雑音も、けれど、野蛮な怒声に比べれば、心地よく聞こえることを、ナミはここで知った。
「あっちでは、みんな何かに怒ってないと生きていけないみたいだった」
ナミの言葉に、男は少しだけ顔を上げ、眩しそうに空を仰いだ。
「ここには怒る相手もいない。比べる相手もいない」
「それって、さびしいことなのかな?」
「さあな」
男は海を見つめる。何も浮かんでいない海を。何も浮かべる必要のない海。何かを監視し、監視されることも、そこには何もない。
「しかし、ここはよく眠れる」
男はそれだけ言うと、また手元の小さなネジを回しはじめた。特別な儀式も、高潔な理念も、ヘンなイデオロギーも、ここにはない。ただそれぞれが、自分の時間を静かに消化しているだけ。
ナミは男の作業をぼんやり眺めながら、自分も何か手伝えることはないかと、ゆっくり腰を上げた。
「そのネジ、回しすぎると潰れるよ」
ナミが言うと、男は
「詳しいな」
と小さく笑った。
ナミはただ首を振った。詳しいわけではない。ただ、力を入れすぎると何かが壊れてしまう。そのことを身をもって知っているだけにすぎない。
ナミは男の隣で、散らばった部品をひとつずつ分類するように並べはじめた。指先に触れる金属の冷たさが、いまのナミには何よりも心地いい。ここには、誰かを説得するための言葉も、自分を大きく見せるための嘘も、必要ない。
ここで暮らすというか、もう、すでに、暮らしているわけだけれど、帰らないといけない理由なんて、ナミには少しも見当たらないみたいだ。




