《第一章 第2話 花弁の記憶》
翌朝、久遠朝臣は寮の部屋で目を覚ました。
夢のような光景の残滓が、頭の奥に淡く残っている。
胸の奥が熱い。昨夜、確かに“何か”が起きた。
手のひらを見つめる。そこには、まだ消えない光の紋。
脈打つたび、心臓の鼓動が桜のように散っていく感覚がする。
「……夢じゃ、なかった」
窓の外では、遠くの丘に薄桃色の光がかかっていた。
まだ咲かぬ桜が、かすかに輝いているように見えた。
——あの木だ。あの場所に何かがある。
午前の授業を終え、彼はひとりで丘へ向かう。
学園の裏手、古い石段を登ると、昨日の桜がそこに立っていた。
花はまだ開いていないが、風に揺れる枝の影が穏やかに動く。
朝臣がそっと枝に触れた瞬間、空気が微かに変わった。
桜の木の下に、一人の少女が立っていた。
黒髪を肩で切り揃え、白いリボンを胸元に結んでいる。
学園の制服を着たその姿は、どこか懐かしい。
だが、彼女は静かにこちらを見つめているだけだった。
「……君は?」
朝臣が声をかけると、少女はゆっくり首を傾げた。
その瞳に映るのは、どこか遠い記憶。
「……久遠、朝臣、くん?」
自分の名を呼ばれて、息が詰まる。
「どうして、僕の名前を……」
少女は微笑んだ。
その笑みは昨日の幻影とまったく同じだった。
「——あなたは、“桜の継承者”。」
その言葉と同時に、風が吹き抜けた。
花びらのないはずの枝から、光の粒が零れ落ちる。
まるで見えない花弁が時間を遡って咲いているようだった。
朝臣は思わずその光を追った。
気づけば周囲の景色がゆっくりと霞み、世界が反転していく。
再び“夢”の中に落ちていく感覚。
——そこは桜色の風が吹く記憶の世界だった。
無数の声が交錯し、名も知らぬ誰かの想いが風となって流れてくる。
“桜魂”。
それは、かつてこの地に生きた者たちの記憶そのもの。
彼はその奔流の中に呑まれながらも、確かに少女の声を聞いた。
『あの日、約束したんだよ。——次の春にまた会おうって。』
その言葉と共に、彼の中に新たな映像が流れ込んだ。
別の誰かの記憶。
桜の下で笑い合う少年と少女。
時代は違う。制服も違う。けれど、彼女の顔は確かに——今目の前の少女と同じだった。
「……これは……前の“僕”?」
問いに答えるように、少女が近づいてきた。
その手が彼の胸に触れると、世界が再び反転する。
気がつくと丘の上。風が止み、桜の木だけが静かに揺れていた。
少女の姿は消えていた。
ただ一枚、光の花弁が空に漂いながら、彼の肩に落ちた。
——その花弁が告げるように、
桜の記憶は再び、次の継承者の中で芽吹こうとしていた。




