《第一章 第1話 声のない継承》
春の雨が上がった午後、山間の学園都市に薄い霧が漂っていた。
その霧の中を、ひとりの少年がゆっくりと歩いている。
名を、久遠 朝臣。
桜咲学園の新入生であり、誰よりも静かな目をした少年だった。
入学式の帰り道、彼はふと丘の上の小径に足を止めた。
その先に、古びた石段と、一本の若い桜の木が見える。
桜はまだ花をつけていない。
けれど、枝先が淡く光っていた。
——胸の奥がざわつく。
「……ここは?」
彼は無意識に手を伸ばした。
指先が枝に触れた瞬間、世界が反転する。
強い風、無数の花弁、そして誰かの声。
『……また、見つけてくれたのね。』
少年は息を呑んだ。
周囲の景色が夢のように揺らぎ、花弁の中に淡い女性の姿が浮かぶ。
長い髪、透き通るような瞳。
だが、声は届かない。音だけが響いて消える。
“声のない言葉”。
彼はそれが何かを伝えようとしていると直感した。
だが、理解できない。言葉が、記憶の奥で弾かれる。
「誰なんだ……君は」
少女は悲しそうに微笑んだ。
そして一枚の花弁が彼の胸に触れた瞬間——
風景が元に戻った。
気がつくと、彼は桜の下で膝をついていた。
手のひらには、花弁の代わりに淡く光る紋が刻まれている。
まるで火のように瞬くその印が、鼓動と共に脈打った。
“継承”——
その言葉が、朝臣の脳裏をよぎる。
何故か知っている。
これは、ずっと昔から受け継がれてきた“記憶の印”。
桜魂と呼ばれるものの一端。
彼は空を見上げた。
霧の中に消えゆく月の光が、枝先を照らす。
心の奥で、誰かの声が微かに重なった。
“八代目の残響を、九代目が受け取るとき——桜は再び咲く”
少年は息を吸い込んだ。
春の香りが、記憶のように甘く胸を満たす。
その瞬間、彼の運命が静かに動き始めた。
——声を持たぬ桜が、再び語り始めたのだ。




