4 遺書 あるいは革命
「なにかすっかり静かになりましたね」
その少女は窓際で、しかし、決して窓の外に自分の姿がさらされないように慎重に、町の喧騒に耳を澄ますのだった。
「ああ、そうだな」
オーギュストは椅子に腰かけたまま応えた。2、3日までは人々の怒号や銃声などがここまで聞こえてきたものだが、今ではすっかり鳴りを潜めていた。
「今回の暴動は完全に鎮圧されてしまったからね」
オーギュストにも暴動の情報は逐一仲間から知らされていたが、組織として参加するかしないかを協議する間もなくあっけなく鎮圧されてしまったと言うのが実情だった。
余りにも成り行き、行き当たりばったりの蜂起であり、余りにも短い失敗だった。
そんな偶発的な騒乱よりも、オーギュストにとっては、数日前の友人の死の方が衝撃的だった。
オーギュストはそれを新聞の記事で知ったのだ。そして、今、その友人からの手紙を読んでいるところだった。その手紙は死の直前に書かれたものだった。
「もう! さっきからなにをそんなに熱心に読んでられるの?!」
少女はオーギュストが読んでいた手紙を掠め取った。
「えっと……『親愛なる友よ』
あら、お友達からのお手紙なのね。私はてっきりお兄様の彼女からだと思いましたわ」
「おい、止めろ。それはこの間死んだエヴァリストからの手紙だ」
オーギュストは妹の暴挙に辟易しながら叫んだ。しかし、妹は兄の大声など慣れているとまるで怯むところがなかった。奪った手紙を相手にヒラヒラとダンスを踊る。
「オーギュスト……? 聞いたことありませんことよ。そんな名前」
「ふむ……、ならザネットならどうだ?
愛称で呼ばれることの方が多かったからな」
「ああ、ザネット!
そちらは聞いたことある御名前ですことよ」
「だろうさ。お前も1度会っているんだから。ほら数年前の夏の別荘の時だ」
「……ああ、あの方ですの。あの方、亡くなられたの?
もしかしてこの間の騒動で犠牲になられたの? お兄様の様に自由活動にご執心でしたから」
「いや、違う。騒動の前にエヴァリストは亡くなっている。
決闘で死んだとか、謀殺されたとか噂されているんだが、本当のところは分からない。
その手紙は彼が死ぬ前日に書かれたものだよ」
「まぁ! じゃあこれは、その方の、お兄様に宛てた遺書じゃないですか!
私、俄然と興味が湧いてきましたわ。死ぬ直前の方ってどんなお手紙を書かれるのでしょう!」
「おい! だから、そう言う悪趣味なことは止めろと言っているだろう」
傍若無人な妹を止めようとオーギュストは立ち上がり手紙を取り戻そうとしたが、妹は笑いながら身をくねらせてオーギュストの手からすり抜けた。すり抜けながら手紙を読み続けた。
「『ぼくは、解析の分野で若干の試みを行った。
いくつかは方程式論に関するものであり、他のいくつかは積、……積分関数に関する……ものだ』
……、お兄様これなんですの? これ本当に死のうとしている人が書かれたお手紙なんですか?」
「決闘で自分は死ぬと他の手紙には書かれていたらしいよ。だから死ぬ覚悟はあったんだろうな」
妹は多少足の動きが鈍くなりつつあったが、なおも手紙を読み続けた。
「『……言い換えるとある群Gが他の群Hを含むとき、群Gは、Hを構成する順列に、ある同一の置換をさせて得られるいくつかの群に区分けされる。従って……』
あの、これ、一体全体なにが書かれているの?
私にはちんぷんかんぷんですわ」
「奴は天才だったんだよ。数学のね。
僕にも正直なにが書かれているのか分からんよ。
だが、あいつは世界中の誰も気づかなかったことに気づいて、それをみんなに伝えようとしたが上手く行かなかったんだ。
それこそアカデミーのその分野の専門家にも理解できないほどなんだからな」
「あら、でも、アカデミーのそんな偉い先生が分からないというなら、そのザネット……いえ、エヴァリストさんの言っていることが間違っているのではなくて?
お兄様にはそれが判断できないのでしょう?」
確かにその通りではあった。妹の不意の正論にオーギュストは一瞬怯みそうになるが、踏ん張った。
「そうかもしれない。しかし、あいつは僕の親友で、あいつも僕のことを親友だと思っていてくれたんだ。
その彼が、最後の夜に、この手紙を公にしてくれとたのんできたんだ。その信頼に応えるために、僕はできる限りの努力をする義務があるんだ」
毅然と宣言するオーギュストに妹の興味は急激に失われいった。
「相変わらず、男の人って面倒臭いですわね。お好きになさってくださいな」
すん、とした表情になると妹はオーギュストに手紙を返すとさっさと部屋を出ていってしまった。
その妹の豹変ぶりにオーギュストはため息をつきながら、再び手紙へ目を落とした。
『ヤコビかガウスに、これらの定理の正しさについてではなく、重要性について意見を述べてくれるよう、公に依頼してほしい。
そうすればいつか、この雑然とした記述を判読して、有益さに気づく人々が現れてくるだろうと思う
心を込めて君を胸に抱きつつ
エヴァリスト・ガロア』
手紙はそう結ばれていた。
その文面に従い、オーギュストはガロアの遺構を集め、名だたる数学者に送った。その努力が実ったのは1846年のことだった。
ガロアは、その死から10年以上たってようやく世界に理解されることになる。その理論は群論と呼ばれる分野を切り開くものだった。ガロアの発想は、数学者の仕事を数を計算することから数の構造を研究するものへと変化させた。それは従来の数学者の研究の足場を一段上に跳躍させる革命的なものだったのだ。
結局のところ、1832年、5月29日、ガロアが死を決意したあの時点で、青年ガロアが熱望していた革命はすでに成されていたのだ。
そして、おそらくその事に、天才ガロアは気づいていたのだ。
気づいていないのは世界だけだった、そして、そのことにもガロアは気づいていたのではなかろうか。
ゆえに彼は絶望し、世界を変えることを切望したのではないだろうか。
ここに一つの分岐点があった。
もしもガロアが死を選ぶことなく、辛抱強く、彼の、彼だけに見えていた景色をもう少し世界に見せる努力をすることを選んでいたら、現在のわれわれはどんな景色を見ることができていただろうか。
それは誰にもわからない。
分かっているのは、1832年5月30日。
その景色は永遠に失われた。その事実だけだ。
2024年11月4日 初稿
参考文献
『アーベル/ガロア 楕円関数論』 (訳:高瀬正仁@朝倉書店)
『ガロア 天才数学者の生涯』 (著:加藤文元@角川ソフィア文庫)
『天才ガロアの発想力』 (著:小島寛之@技術評論社)
『はじめてのガロア』 (著:金重明@講談社)