2 動乱前 宿屋、夜明け
ザネットは酒場の上にある宿屋の部屋に戻った。部屋と言っても壊れかけたベッドと小さなテーブルと椅子があるだけだった。
しかし、今はこのテーブルと椅子がなによりもありがたい、とザネットは思った。
『友へ……
僕は破廉恥な女と、その女にたぶらかされた2人の男の犠牲になるのだ』
椅子に腰かけると手紙を書き始めた。
自由のために共に戦ってきた同志たちへの手紙だった。一息に書き終えると、ザネットは深いため息をついた。
そして、明日のこの時刻には自分はもう生きていないであろう、その現実に思いを馳せた。
奇妙な感覚ではあったが、死への恐怖ではなかった。かといって大義に死ぬ高揚感でもない。強いて言うなら絶望感、あるいは虚無感であろうか。
思えば僕の人生は失敗ばかりだった
受験に失敗し、世間から無視され続けた
下らない質問をして、自分を落としたあの試験官の名前はなんだったけ?
自分の方が正しいのにそれを理解できない連中のいかに多いことか?
君の主張には不十分なところがあるって?
さてさて、その主張こそ歴史的に正しいか判断してもらうために記録に残すべきだ!
不正や不条理なことがまかり通る。自分勝手な理屈を捏ね、私利私欲を肥やす者たちが正しいともてはやされるそんな世界にはうんざりだ
そんな奴らは皆、片っ端から断頭台にかけてやれば良いんだ
かのロベスピエールは正しかったのだ
例え、最後には自分も断頭台の露と消えたとしても本望だろうさ!
自分は彼の逆だ。
僕は、己の死をもって世に正しさを示す先駆けになろう
思い残すことはなにもないのだから……
そう思いながらも、ザネットは不意に残される家族のことが思い出した。
自分の放蕩で心労をかけてしまった母親のやつれた顔が目の前に浮かんできた。
母さんには悪いことをしたと思う
だけど、これは父さんの無念を晴らすための行動でもあるんだ!
ザネットは思わず心の中で叫んでいた。
父さんは優しく、陽気で、責任感強かった、僕らの愛すべき父さんは、王党派の嫌がらせで自殺においこまれたんじゃあないか!
それなのに父さんを自殺に追い込んだ連中は罰を受けるどころかのうのうと生きている
こんな馬鹿な世界なんでぶっ壊さないと駄目なのに、なんで母さんも姉さんも分かってくれないんだ
僕のやっていることは正しいのになんでみんな違うって言うんだ!
家族ですら、だ!!
ザネットの頬に一筋の涙が零れた。
彼はその涙に気づくこともなく首を力なく横に振った。
もう、いいんだ。すんだことだ
全ては明日になれば終わる
僕が切っ掛けになって世界は変わるんだ
変わった後にみんな気づくんだ 僕が正しかったってことに
だが、そうなったってもう遅い
僕は永遠に失われて戻ってはこない
そこでみんながどんなに嘆いても遅い
ざまあ見ろだ
ふん、そうさ、そうなっても遅いのだから……
ザネットはぐったりと椅子の背もたれに体を預けた。なにかもが空しく、身体中の力が抜け出してしまったようだった。
いっそもう一度酒場に下りてシューやデュナンと朝まで酒を飲み明かそうか、とも思った。
だが、すぐに思い止まった。
人生最後の夜だ。もっとなにか確かなことをしたい
僕が生きた証を残したい
でも……、僕が生きた証ってなんだったけ?
生涯をかけても良いって思ったもの
愛国以外で、いや、それ以上に情念込めたもの……
それはやはりあれしかない!
僕が、僕だけが理解している世界の理をどうにかして残さなくては
ザネットは突然沸き起こった衝動に突き動かされ椅子から立ち上がると狭い部屋の中をぐるぐると動き回った。
どうしよう、どうすればいい?
数分の間考えた挙げ句、ザネットは1人の男の名前に思い当たった。
オーギュストだ!
そうだ、彼なら僕の言うことを信じてくれる
彼に僕の気づいた真理についての手紙書こう
理解は到底できないだろうけれど、頼めば、それを理解できる人物に渡す最大限の努力はしてくれはずだ
ザネットはそう考えると再び椅子に座りペンを取った。
『親愛なる友へ……』
オーギュストへの手紙はなかなか進まなかった。自分の発見したことを簡潔に表現したかったがその方法が分からない。こんな自明な事柄が、なぜか皆には理解できないのか理由が分からなかった。
どう表現すれば分かってもらえるのか分からないもどかしさにザネットは苛まれ続けた。熟考するには時間が余りにも足りなかった。
僕には時間がない!
なんで……、なんで僕は革命なんかしようとしているのか?
僕は本当に革命なんかを望んでいるのか?
ザネットはふと自問してみた。
本当は……僕が本当に革命を起こしたかったのは別の世界で、じゃなかったのか?
だが、すぐに頭を激しく振り、考えを振り払った。
結局のところ、この世界に僕の居場所はないのだ。
僕が、世界が理解できる言葉を持たないように。世界も、僕を理解できないんだ。だからこの世界をまず変える。その後に世界が僕を受け入れるしかない。
世界が変わってから僕は受け入れられる
僕が受け入れられて世界が変わることはない
「固有ではない世界か!」
なんと言う皮肉であろう、とザネットは笑わずにはいられなかった。
笑いながら、涙を流し、そして、ひたすらオーギュストに送る手紙を綴り続けた。
やがて窓が白々と明るくなる頃、部屋の扉がノックされた。
扉を開けるとシューとデュナンが立っていた。2人とも顔が赤く、酒臭かった。2人とも本当に飲み明かしたようだった。
「覚悟は良いのか? 今ならまだ間に合うぞ」
それでもデュナンの呂律は普段と変わらない調子だった。
「勿論だ」
ザネットは短く答えると部屋を出た。宿屋の主人に宿賃と手紙を託すと3人は揃って歩き始めた。
「どこでやるんだ?」
「余り人気がないところが良いな。邪魔されるのは勘弁だ」
「ならあっちの方に見晴らしの良いところがある。今の時分なら人気もない」
シューの案内で歩き続けるとやがて見晴らしの良い川のほとりに出た。
「なるほど確かに見晴らしが良いな。じゃあ邪魔が入らない内にやっちまうか」
デュナンはそう言うと鉄砲を取り出し、ザネットへ向けた。それを見たザネットは慌てて言った。
「こんな至近距離で撃つなよ。25歩離れるんだ」
「25歩だって?! 一体全体どうしてそんなに離れなきゃなんないんだ。当たらなかったらどうするんだ」
「当てろよ。君は鉄砲の名人なんだろ。酒に酔っぱらっていても当てられるだろう。
偽装だよ。
なにかあって君らが疑われることになっても決闘だったと言い逃れできるようにするんだ。
さっき宿屋の主人に渡した手紙にもそんな風に仄めかしておいた。
さあ、さっさと離れろ。25歩だ!」
「はいはい、流石に天才数学者様は数に厳しいな」
「黙れよ! 僕は数学者じゃない。少なくともこのフランスではね!」
怒鳴るザネットに肩をすくめて見せると、それでもデュナンはしぶしぶとではあったが、きっちり25歩を数えて振り返り、鉄砲を構えた。ザネットは両手を広げ身動きひとつしなかった。
ターーン
1発の銃声が朝のまだ肌寒い空気を震わせた。
ザネットは前に1歩踏み出そうとしてそのまま腹を押さえてうずくまった。
そんな彼に歩み寄ろうとするデュナンをシューが止めた。
「待てよ。あれを見ろ。誰かこっちに来るぞ」
シューが言うように誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
「まずい。隠れろ」
シューとデュナンは近くの茂みに身を潜めると近づく男たち、2人いた、を伺った。どうやら近くに住む農夫のようだった。2人は道端に倒れているザネットに気がつくと、なにやら声をかけていたが、やがて2人でザネットを抱えると大急ぎで行ってしまった。
「まずいことになったな。連れていかれちまったぞ」
「なに、なにもまずいことはない。むしろ、俺たちがあいつを病院に連れていく手間が省けたってもんだ」
困惑するシューに対してデュナンは平然と言ってのけた。
「あいつらを追いかけて、どこの病院に連れていくか確認したらみんなに知らせるんだ。いや、こっそり耳打ちするような噂話の方がいいな。
ザネットは警察の陰謀で撃たれたって同志たちに耳打ちするんだ。
そうなりゃきっと、民衆は怒って暴動になる。
さあ、行こうぜ!」
デュナンはシューの肩を叩くと大分小さくなった農夫たちを追いかけて走り出した。