1 動乱前 酒場
「さて、ここに3枚のカードがある」と、その若い男は言った。
パリの城門を抜け、迷路のような裏道を何度か曲がった先にある、煙草と安酒の臭いが充満した、貧相な酒場。その片隅のテーブル席での事だった。
男の顔色はすこぶる悪く、頬も痩せこけうっすらと無精髭が浮かんでいた。きている服もいつ着替えたのかも分からないよれよれで垢じみていた。ただ、隈で真っ黒に縁取りされたその瞳だけがギラギラと不気味な光を放っていた。
その男の前にはやはり、若い男が2人並んで座っていた。3人とも風采は変わり映えしない。くたびれた貧相な服とうっすらと生える無精髭と垢で黒くくすんだ顔色をしていた。とは言え、パリにすむ労働者たちは大抵みんな、彼らのように薄汚れて疲れはてていた。
表現を変えよう。
彼らは別に取り立てて特徴のない、パリのどこにでも転がっている下級市民そのものだ。
彼らこそは、フランス革命以後、王政復古で再び抑圧された、困窮を極める人々だった。
「なあ、ザネット。本気なのか?」
「なんだって? シューよ。僕が本気じゃないなんて君がまだ思っているのが信じられないよ。
この件はずっと話していたじゃないか。
そこで何度も言っているだろう。
革命だよ。
革命!
僕らに残された道はそれしかない。
そのために誰かが命を投げ出さなくてならないなら僕がなろうと言っているじゃないか。
なあ、言ってみろよ。僕が嘘や虚勢でそんなことを言う男かどうかを!
なあ、デュナン、君はどう思ってるんだ!!」
「あ? ああ……
お前はそんな奴じゃないと思っているよ。やるとなったら後先考えずにまっしぐらだ。
なんたって『フィリップに乾杯っ!』だからな」
「ふん、あんなものは武勇伝にもならん」
ザネットと呼ばれた男はふんと鼻をならして吐き捨てた。
「そんなことより、君らも覚悟を決めたんじゃないのか。だから僕の前にいるんだろう?
それとも、今になって怖じ気づいたのかい?
まあ、それならそれでも良いよ。ならば、僕が全部引き受ける」
息巻くザネットを前にシューは驚いたように両眉を上げ、デュナンは小さなため息をついた。
「そういう訳じゃあない」
そう切り出したのシューであった。
「ただ、俺はラマルク将軍が病気になったって聞いたんだよ。例の流行り病だ」
そこでシューは周囲を憚るように声を潜めた。
「将軍もお歳だ。つまり、危ないんだよ。
つまり……な、分かるだろ?」
しかし、ザネットは唇を歪めるような笑みを浮かべると「いや、分からんね!」と言った。
シューは軽く首を振ると言葉を続ける。
「ラマルク将軍って言やぁ、俺達なんかよりよっぽど大物だ。将軍が亡くなったとなればそれをきっかけに民衆はきっと立ち上がるぜ」
「だから?」
「……だから、俺達が慌てて命を投げ出す必要はないってことだよ」
「やれやれ、そんなことかっ!
まったく。
やっぱり!
結局!!
怖じ気づいたってことじゃないか。
そんなのは却下だ。将軍は亡くなってもいないじゃあないか」
「いや、俺は様子を見てからでも遅くないんじゃないかと言っているんだ」
「そもそもだ、ラマルク将軍ではダメなんだよ。
彼は英雄かもしれない。それは公明正大に認めようじゃないか。だが所詮はナポレオン時代の英雄でしかない。
ナポレオンが何をした?
市民の代表みたいな顔をして、ちゃっかり皇帝の椅子に座った王族の偽者じゃないか。僕たちが革命で勝ち取った自由と平等を掠め取った簒奪者だ。ラマルクはその部下だっんだぜ。そんな奴の死で始まる革命など、たとえ成功したとしてもなんの意味があると言うんだ!
僕はもうそういうのに我慢がならないんだよ」
「そうなのか? なにが切っ掛けだって成功すればおなじだろ」
「ちがう!
構造を変えなければ結局同じなんだ。
ルイだろうがシャルルだろが、ナポレオンもラマルクだって同じだ。頭が変わっても奴らのやることは同じだ。勝手な理屈を捏ねて僕たちを弾圧して、搾取することしかしない。最初は良くてもいずれもとに戻る。つまり民衆からの搾取にね。
だから僕たちは構造を変える努力をしなけりゃダメなんだ。その為には僕たち、民衆自ら、が革命を起こし、権利と自由を勝ち取らないとダメなんだ」
ザネットの声は話している内に熱を帯び、声は大きくなり、手振り身振りが加わり、最後には腰が半分浮くほどだった。。そんなザネットを見て、シューとディナンは慌てて周囲へ目を配った。酒場に潜む警察のスパイを気にしてのことだ。
「お前の考えは分かった。だから、そんなに興奮するな。
良いさ、それなら覚悟を決めようじゃないか。
で、お前さんはどうしょうっていうんだ」
なんとかザネットを椅子に座り直させるとデュナンが問いかける。
「ラマルク将軍ほどではないかもしれないが僕たちも、仲間内ではそれなりに有名だ。だから僕らの誰かが政府の手にかかって落命したとなれば民衆も黙ってはいないと思う。そこでだ。ここに3枚のカードがある」
と、ザネットは改めてテーブルに置かれた3枚のカードを指し示した。
「左はスペードのキング」、と言いながらザネットは左のカードをめくる。言われた通りそれはスペードのキングだった。
「我らが敬愛すべきプィリップ王だ。
そして、右はクラブのジャック。
勤勉にして哀れな民衆。つまり、僕たちさ」
続けて右のカードもめくって見せた。確かにクラブのジャックだった。そして、ザネットは真ん中をめくった。それはハートのクイーンだった。
「そして、これが我らの自由の女神様だ。
まったくこの女神様ときたら王党と民衆の両方に色目を使い、どっちつかずにふらふらしている性悪の女のようだ。
この女神様を永遠に僕らの物にするために命をかける。それが僕らの目的だ。その栄誉に預かれるのはこの3人の中でただ1人。この女神を引き当てた者だけだ」
ザネットは、3枚のカードを全て裏返しに戻した。
「こいつをシャッフルする」
ザネットはまずカードを右に一枚ずつずらした。左のカードは真ん中に、真ん中のカードは右。そして、右のカードは一番左へ移す。それから、真ん中のカードと右のカードを交換すると、続けて右端と左端を交換。さらな全体を左にシフトして、右と真ん中をもう一度交換した。
「ついてきているか?」
ザネットはニヤリと笑うとそう言った。
「この手順を後五回繰り返す。目ん玉ひんむいて良く見てな。女神を見失うなよ」
ザネットはなれた手付きでカードをシャッフルした。
「さあ、選びたまえ」
シューとデュナンは1度顔を見合わせるとそれぞれ1枚カードを選んだ。シューが左のカード、そして、デュナンは右を選んだ。それを見たザネットは大きく息を吐くと言った。
「ならば僕が真ん中だな。開けてみろよ」
シューのカードはスペードのキング。デュナンはクラブのジャックだった。
「おめでとう。これで君たちは生き残る。女神は僕の手中だ」
ザネットはカードをめくることもなく席を立った。
「なんと言えばいいのか、言葉が思いつかないよ」
席に座ったまま、困惑した顔でシューは言った。
「別にそんなものはいらない。どんな言葉を並べ立ててもなにも変わらない。
結果だけだ。結果だけが世界を変えるんだ。そうでなくてはそんな世界は偽物なんだ」
「偽物の世界ねぇ」とデュナンは言った。
「ザネットよ、お前さんの言う本物の世界ってなぁ、一体どんなもんなんだ?」
「僕の考える本物の世界だって? それは……」
ザネットはまじまじと目の前の若者へ見つめた。一瞬、なんで二人がこんなところに居るのか理解できない、と風な表情をした。
「構造だよ、この世界の構造を変えなければなにも変わらない。すぐに元に戻るんだ。
その為に僕はこの命を捧げるさ。後は君たち愛国者に任せるよ」
「本当にやるんだな」
「勿論だ。僕はこの性悪の女に引っ掛かってしまったからね」
デュナンの念押しにザネットは手に持ったハートのクイーンを見せびらかしてながら言った。
「分かった。なら、今日は朝まで飲み明かそう」
デュナンは給仕を呼ぶと酒を注文する。しかし、ザネットは酒が来る前に立ち上がった。
「すまないが、宴は2人でやってくれ。僕はやり残したことをやるよ」
「なんだって?! この期に及んでやり残したことだって? そりゃ一体なんだい」
「少し手紙を書いておきたい。上に居るから朝になったら迎えにきてくれ」
ザネットはそう言い残すと酒場を後にした。