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15.十五夜の恋人たち


翌朝。


部屋にほんのりと差し込む朝日に、葵が身じろぎする。体がなんだか温かい。

夢うつつの葵の脳裏に、もう一人の自分の姿が浮かんだ。


あれは一体、いつだっただろう。


(………あの時、夢のわたくしは素直になれなくて………初めて一緒に朝を迎えた時も、光さまの顔を見られなかった………)


ーーーそして光さまも、わたくしの方を見ていなかった。だから、わたくしは一人で、こっそり泣いていたのだ。


(………そうだわ。夢と結末が変わるように、早く起きていよう)


そう決めて、体を起こそうとした時だった。

「んん〜……」

そう、眠ったままの夫が、葵をぎゅうぎゅう抱きしめてきたのは。

抱き寄せて、足を絡めて、決して離れられないように。


「〜〜〜〜〜!?」


葵は真っ赤になった。

真っ赤になって、なった拍子に、はっと夢の世界から醒めた。


自分を腕の中に閉じ込めて、満足そうな顔で夫が眠っている。

外は明るく、部屋は静かである。

いつも聞こえてくるはずの、陰陽寮(おんみょうりょう)の太鼓の音が聞こえない。

ということは、つまりーーー。

葵は飛び上がった。


「……光さま、光さま!」


要するに、明らかな寝坊である。


光る君の寝坊によって起こる不都合不名誉その他一覧が脳内に押し寄せてきて、葵はパニックになった。

光さま、と名を呼んでは、起きない夫をゆする。


当の光はむにゃむにゃと、寝惚け声のままである。

「う〜ん、起こさないで………今、すっごく幸せな夢を見ているんです」

目を閉じたまま答える声に、葵は途方に暮れた。


辺りを見回せば、明るくなった部屋に夜着が散らばっていてーーーそれはつまり、自分も夫も夜着を着ていなくて。


「〜〜〜〜っ」


この時代、女君を訪ねれば、夜明け前の暗いうちに帰っていくのが当たり前である。


葵は両手で顔を覆った。


このまま衾から出て、夜着を拾い集めるなんてとてもできそうにない。


だから、やっと起きた光が目を開けた時、最初に映ったのは頬を染めて、涙目で震える葵の姿だった。


今までずっと、寝起きの時でも少しの隙さえ見せたことのなかった妻である。

それが今日は。


噂に聞く以上の見事な、それは艶やかな寝乱れた姿ーーーブワッと一気に、光の脳裏に昨日のことが蘇った。


「あ、葵……あれは夢じゃなかったと、私は自惚れていてもいいんですか?」


跳ね起きた光に抱き寄せられて、もう、遅刻するって言ってるのに、と葵は顔を覆った。


側仕えたちに身の回りのあれこれをされながら、光がそればっかり聞いてくるのだ。

「……もうっ、知りませんっ」

夢の葵も顔負けの冷たい声で、葵はつんとそっぽを向く。


けれどその頬は真っ赤なままで、そっと髪に触れれば首筋には昨夜また、光がつけた跡がーーー。


(ああ、夢じゃないんだ)

そう思って、光は幸せに浸った。

デレデレと妻に頬ずりする姿は、とても都中の信奉者(ファン)たちには見せられない。

デレデレ顔のまま頬に口付けられて、葵はもう、と頬を押さえた。


上目遣いに夫を睨む。

「もう………早く行ってください。皆さま、光さまをお待ちですわ」

「うん……葵、なんでそんな怒ってるの」


やっと準備を終えて、いまだにこちらを見ようとしない妻に、光が尋ねる。

小さな声の答えはこうだった。


―――光さまが、夢だなんて言うんですもの。


「夢だなんて、そんな風に言われたら、わたくしの方が………あれは夢だったのかと………」

光の心はもう一度、宙を飛んだ。

「夢じゃない。夢じゃありません。確かめてみますか?」

ふざけて、葵を抱き寄せてみる。

もう朝です、と怒られた。


「夜ならいいの、葵?」

そう言ってまたふざけながら、光は幸せを噛み締めた。

「ああ……なんて幸せなんだろう。ねえ葵…………私、昨夜が今まで生きてきた中で一番、幸せでした!」


笑顔でそんなことを言って、また対屋を爆発させながら、光がはっと言葉を続ける。

「あ、嘘だ………今の方が幸せ。だってあれは夢じゃなかったとわかったんですから。それから、明日はきっともっと………葵、今日も絶対、急いで帰って来ますから!」


「うう…………」

まだここで、笑顔でハイと答えられるほど慣れていない葵は、扇で顔を隠したままおずおずと頷いた。

わーい、と光が舞い上がったのは言うまでもない。


牛車で大路を行く出勤の間中、惟光は主人に「頼むから顔をしかめろ!にやけるな!」のジェスチャーを送る羽目になった。



***



光の浮かれっぷりは意外にも、世間にはバレなかった。

特に紛糾する議題もなかった朝議は光抜きのまま早々に終わっており、とんぼ帰りすることになったからである。


相変わらず徒歩より遅い牛車の中で、光は昨夜を思い出す。

朝からもう、何度目かわからない回想である。


二条の屋敷をなんとかして、やっと葵の待つ対屋に帰り着いた光は初め、絶望のふちに立たされていた。

結婚してから初めて、葵が出迎えてくれなかったのである。


代わりに総出で迎えてくれた女房たちはなぜか例外なく微笑ましげにニヤニヤ、ニマニマしているが、光の知ったことではない。


動揺を察したのだろう。

一人の女房が進み出て、申し訳なさそうにこう告げた。

前に、扇で自分をあおいでくれた女房である。


「光る君さま……姫さまは少し、ご気分が優れないからと、自室でお休みでございますわ。乳母君がついていらっしゃいます」


「あ、ああ………うん、そっか……大丈夫かな……とういうかそれ、うん………ごめん、私の……」


ーーー私のせいだ!!


光がそう思って崩れ落ちたのと同時に、中納言の君や中務たちのニマニマ笑いが深くなった。


見舞いに行きたくても行けなかったのは、どっかの誰かがサボった分の政務が全て回って来たからである。

涙目の使者が、いつもは大して役に立ってない源氏の宰相中将(光る君)の元にやってくる。


「頭中将さまが行方知れずなのです。光る君さま、どうかお力添えを………!」

「ええ!?………ちゃんと探した!?特にほら………この屋敷とかを!」


そう訴えても、「左大臣さまのお屋敷を家探しするとか畏れ多い!無理です」と使者たちは震え上がっている。

光はこめかみをもみながら、何故か突然住所不定無職にメタモルフォーゼした義兄のフォローに走り回った。


とりあえず溜まった政務をなんとかして、悪友たちに「葵の上がご病気だって?嘘だろ?白状しろ、君は一体何をやったんだ?」と散々揶揄われ、「心配でたまりません。早く良くなってくださるといいのですが………」と型通りに答えてはいやその原因はお前じゃんという周囲の生ぬるい視線にさらされる羞恥を耐え抜いて、やっと見舞いに行ける権利をゲットした光が部屋を訪れると、今度は妻の姿がない。


崩れ落ちながら自慢の鼻を駆使して匂いをたどり、屋敷の中を徘徊していたのである。

そこから先は言うまでもない。


何日かぶりに一緒に御帳台に入った光の心臓は、飛び出さんばかりに跳ねていた。


(………葵は、もう寝たかな)


暗い御帳台の中で、光はころんと手を繋いで眠る妻の方に体を向けた。

寝顔が見たいと思ったのだ。

いつもいつも、自分がお休み3秒なせいで見逃している、妻の可愛い寝顔を。

そしてーーー。


「あ………っ。」

思わず、そんな声が出た。

葵もまだ起きていて、そして。

自分を見つめて、初めて見る真っ赤な顔をしていたからだ。


ぱちん、と二人の目が合う。

葵は一層赤くなって、困ったように瞳を揺らしていた。

光が思ったことは、的外れにも、「葵、眠れないのかな、もしかして困らせてるかな……」だった。


肉食恋愛モンスター、平安貴族の鑑みたいな義兄がいつもそばにいるので、口説くのが下手な自覚はある。

「……困らせていたら、すみません………」

そう謝れば、葵はふるふると首を振った。

「困るだなんて、そんな。びっくりしただけです……」

涙目に、震える声。心の中で必死にお経を唱えていた光は、その言葉に思わずがばっと起き上がった。


「え……そ、それでは」

葵が何にも言わずにくっついてくる。

「………!葵」

もう一度目を合わせれば、真っ赤になった葵がこくんと頷いてくれた。

「………!!」

光は夢中で葵を抱きしめた。

触れる肌が柔らかい。かかる息が熱い。

今までずっと耐えてきたはずの自分がこんなに我慢の効かない男だったなんて、光は知らなかった。


結婚してから、早、五年。二人が枕を交わしたのは、この時が初めてだった。


「…………っ、私だけだと、好きだと言ってください。お願い……あなたの口から聞きたいんだ」

肌を合わせながら、光が何度もそう(こいねが)う。


「………光さまだけ………」


小さく耳に届いたその言葉に、光はぷつんと自分の理性が飛ぶ音を聞いた。

空に上った満月が西の空に傾いても、葵は光の腕の中のままだった。

一体いつ眠りについたのか、光は覚えていない。


微睡の中、光の腕の中で、頬を染めた葵が言う。光も、夢の中の誰も見たことのない、夢見心地の顔で。


「ずっと、一生………わたくしだけなの……?」


光は夢中で頷いた。

葵の目からは涙が溢れる。

「嬉しい……」


思わずこぼれた微笑みに、光の心が宙を飛んだ。

眠るのが明け方になったのなんて、夢でも現実でも葵は初めてだった。



***



夜空に、丸い月が出ている。

旧暦8月の十五夜、涼しい風が吹き始めた夜。

光が左大臣邸で幸せな夜を過ごしていた頃、もうひと組の恋人たちは二条の屋敷で、肩を寄せ合っていた。


「……これは夢ではないのですか。目が覚めてしまったら、消えてしまいそうでこわいわ。あなたがもう一度、私を見つけてくださるなんて」


頭中将の実家、三条の左大臣邸から、二条の屋敷に移った後。プレイボーイの名を一時返上して、毎日自分の元にだけ通って来る彼の腕の中で、夕顔は甘えるように頭をもたせかける。


「もう、決して会えないと思っていたのに……」

そう言う様子は昔と変わらずいじらしい。


年上なのに幼く、おっとりして見えるのに、冗談に応える様子は小悪魔的に可愛いと、夢の光が褒め称えた夕顔である。


「消えるもんか。俺を誰だと思ってるんだ。俺に見つかったが最後だ。もう離さない」

頭中将の心が宙を飛び、そう誓うのも無理はないほどに。


「嬉しい……今このまま、あなたの腕の中で死んでしまえたらいいのに……」

夕顔が呟いた。それは彼女がいつも言う言葉だった。あの夢の中で、光と出会ってからもずっと。


夢の光と同じように涙の幕が張った目で、けれど光とは違って自信満々に、頭中将は夕顔の言葉を笑い飛ばした。


「死なせるもんか」

とは、彼の言葉だ。


―――俺より先に、死なせたりなんかするもんか。


懐かしい大きな手が、夕顔の頬を撫でる。まだほんの少女だったあの日、夕顔が恋に落ちたあの声で、頭中将が言う。

「あなたに会えなくて、俺がどんなに辛かったか。愛しい、俺の常夏の妻よ。この命が尽きるその時まで……どうか、ずっとそばにいてくれ」


頭中将が、夕顔に口付ける。

長い、長い口付けだった。やっと唇を離した頭中将を見つめて、夕顔は微笑んだ。まだ殿上に上がったばかりの少将だった頃の頭中将を虜にした、あの愛らしい笑顔で。


最後にそうしてから、一体、どれほどの月日が経っていただろう。

夕顔の脳裏に、三年前、戯れに、頭中将から歌を詠みかけられたあの日が浮かぶ。


宮中で噂の、高貴な若君。

それに引き換え、母を亡くし父を亡くし、身分も教養も、生きる意味さえも、何も持たない自分。身分違いの、遊びの恋だと分かっていた。

だからそれらしく振舞った。彼の都合のいい恋人になりたかった。


いつかきっと来る、会えなくなったその時には、ああ、こんな女もいたな、楽しかったなあなんて、笑って思い出してもらえるような恋人に。


だから彼が自分に夢中になってくれた時、夕顔は信じられない気がした。その時にはもうすっかり、彼に恋をしていたから。


どうか俺の妻になってくれ、と請われたこと。子どもが出来たこと。

大きくなったお腹を撫でて、大事そうに腹帯を巻いてくれたこと。

生まれた娘に、瑠璃姫という名前をくれたこと。


―――こんなに、幸せでいいんだろうか。私の人生に、こんな幸せがやってくるなんて、信じられない。


夕顔は何度、そう思って震えたことだろう。

だから、別れの時のことはすんなりと受け入れられた。

一時の、幸せな夢。

それがただ終わったのだと思った。


身分も何もない自分だから、身を隠すのは簡単だった。自分が望んだことだ。なのに涙が止まらなくて、夕顔は苦笑した。


どうしようもない、つらいことを受け入れるのには、慣れている。もう会えない愛しい人を忘れるために、夕顔がしたのは、彼のような人になってみることだった。


自分以外にも、妻が、恋人がたくさんいるあの人のように。

心惹かれることがあれば、すぐにそちらを向いて笑ってみる。何気ない日々の中に、いつでも何かしらの楽しみを見つけて、周りを笑わせる冗談を言ってみる。


そして………。


あの人がかつて私にしたように、ここを訪れる誰かに、歌を贈ってみる。あの人がいかにも作りそうな、明るくて楽しい、恋の歌を。


そう、だから。

―――私は忘れられなかったのだ。


覚えている頃よりも、彼は少し背が伸びた。出世頭の中将らしい威厳も。

どこがどう変わったのかさえつぶさにわかるほど、恋しくて仕方がなかった人。

私は今、その人の腕の中にいる。

夢を見ているのだろうかと、夕顔はまた思った。


「絶対に、幸せにする」

「……それはきっと、無理です」

眉を顰める頭中将に、夕顔は悪戯っぽく微笑んだ。

「あなたに、もう一度会えたのだもの。私にとって、これ以上の幸せはありません」


かつて、いつもそうされたように彼に押し倒されながら、夕顔は愛しい恋人を見つめた。


それは俺の台詞だと、頭中将が言う。

「俺の台詞だ。俺が今、どんなに浮かれてるか、君はきっと知らないんだろう」


頬に、鼻に、唇に、顔中に口付けが降って来る。視界に彼しか映らなくなって、懐かしいその匂いに包まれて、その瞳の中に自分が映っているのを確かめてーーーそれから。


彼女は元の、おっとりして、甘えん坊の、歌を詠みかけるなんてとてもできない内気な少女に、やっと戻ることができたのだった。


彼に連れてこられたこの大きな屋敷は、知らない場所だ。でも彼の腕の中にいるなら、怖くはない。

彼女が心細く思う暗闇は、光が増やしまくった灯籠のせいでどこにもなかった。むしろ、灯りを恥ずかしがる彼女に、頭中将が愛おしそうに笑った。


破魔の弓も太刀も、まるで妃の部屋のように、いやそれ以上に厳重に警固された部屋だった。

それがどうしてなのか、夕顔は知らない。理由なんて一生、知らなくていいと思った。

愛される主の姿に、右近がホッとしたように微笑んでいた。

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