13.夕顔の花は誰の手に
夢の光が愛した夕顔の君が隠れ住んでいるのは、五条の細道にある小さな家である。
青々とした蔓草の生い茂る垣根の前には、彼女の名の由来となった白い花々が咲き乱れている。
今年十九になったばかりの常夏の君こと夕顔は、そちらへ視線を向けて微笑んだ。
花に手を伸ばす人影が見えたのだ。
仮住まいのこの家には、通りを行き交う人々の雑踏がいつも響いてくる。
上流階級に生きる姫君たちにはきっと一生、縁のない世界だろう。
夕日が差し込む頃には簾の奥が見えるほどに照らされ、廊下は細い渡り板の橋を架けただけの隠れ家である。
この前なんて、身を乗り出した女童がうっかり落ちそうになって、ちょっとした騒ぎになった。
「だって、だって、あのお方がいらっしゃったのかもしれないもの。姫さまを探して………」
泣きながらそう言い募る女童に、夕顔は目をぱちくりして、それから笑った。
きゅ、と胸を押さえる手を、袖の中に隠す。
通りをまた、誰かが歩いて行く。
先払いの声を立てて通る、立派な牛車。大勢の随身や少年侍たち。
きっとよほど、身分の高い貴公子なのだろう。
この通りにはおよそ相応しくないきらびやかな一団に、女房たちが目を見張っていた。
夕顔の花が揺れる。
風が吹けばすぐになびくくせに、咲いた翌朝にはしぼんでしまう、こんな下町の、貧しい家々の垣根にしか咲かない花。
物珍しさに惹かれたのか、牛車が止まった。
「………枝も頼りない花ですもの。扇に乗せて差し上げて。ねえ、右近---」
そう言って、夕顔がおっとりと振り返る。
長い睫毛に縁取られた瞳はぱっちりと大きくて、けれど垂れた目尻が愛らしい。
小さな鼻も唇も、まるで丹精を込めて作られた人形のよう。
そんな花の顔に浮かぶ仮初の微笑みも、この言葉も、もうすっかり、いつものことになってしまった。
右近とは、彼女の最も信頼する女房の呼び名だ。こんな暮らしになっても、自分を見捨てずについてきてくれた乳母子の女房である。
右近が、悲しげな目で首を振った。
彼女の腕には、小さな女の子が抱かれている。夕顔によく似た愛らしい女の子が。
「あら、では、私が……」
夕顔はいつもそうしているように、笑って立ち上がる。打ち沈む女房たちを慰めるように、薫を焚きしめた扇をかざして戯けて見せた。
“心あてに それかとぞ見る 白露の……”
散らし書きの字で、白い紙の扇にそう書きかけて、ふと。
夕顔は、動きを止めた。
***
「……ちょっと、待ってください。一旦、整理させてください?何がどうしたと言うんです、光さま?」
「いいから、いいから早く!緊急事態なんだよ惟光……頼む、一刻も早く頭中将を呼んできてくれ!!………あっ待って、私を置いていかないで!」
「どっちなんです!」
「うう、頼む!ほら、ほかの家従も呼んでいいからぁ!」
………ことは数刻前に遡る。
実家のすぐ目の前で光と言い争いながら、惟光がこめかみを揉んだ。
母の病の心配に加え、どうやら奇行の気がある主人に振り回されて、すっかり癖になってしまった仕草である。
「………頭中将さまを、ですね………一体どうすると言うんです、こんなところに呼び出して?」
言いながら、惟光は呆れ顔になって光を見た。
あの夢と同じ顔である。
夢の中で、夕顔を見初めた光る君を、惟光はまさにこんな顔で見ていた。
ーーーああ、また、光る君さまの好色癖が出てきたのだな。
そう思いながら。
最も、夢のことなどさっぱり知らない惟光はただ単に呆れているだけなのだが、不安になったのは光である。
「………その顔は何だよ?」
と、身震いした。
今の自分と同じ、十七の夢の光る君には、もう幾人もの恋人がいた。
だから乳兄弟に、“また”“好色癖が出てきた”なんて思われるのだ。
ーーー破滅への道、ダメ絶対!
牛車の簾や轅で自分をぐるぐる巻きにしてその顔を隠し、もはや新種のエリマキトカゲのようになった光が、乳兄弟を睨む。
「おい。………違うからな?」
「………何がです?簾と轅と、あなた様のお首が千切れますよ。全く、お忙しい頭中将さまを、なんと言って呼び出せばいいのやら……」
「そんなの決まってる。“あなたは今、幸せですか?”」
「………はい?」
「“そんなことはないはずだ。私には分かる!幸せになりたければ、今すぐ吉祥天女のお告げを思い出せ!”って」
「………新手の宗教勧誘っぽいので嫌です」
だが頭中将はそれでもちゃんと呼び出しに応じて来てくれたので、光はなんだかんだ優しい義兄と、従者の鑑の乳兄弟に心から感謝した。
***
“心あてに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花”ーーー
ーーー夕顔の花に、白露の光を添えておいでのお方。あなた様はもしかして、あのお方なのでしょうか………?
そう、即興の歌を扇に書きかけた夕顔は、ふと、そこから動けなくなった。
簾の向こうに映る影に、見覚えがあったからだ。
―――まさか。きっと、見間違いだ。
震える手で筆を置き、そう思った時、声が響いた。
「俺を、覚えておいでですか。………俺の愛しい、常夏の君」
懐かしい声だった。もう二度と、聞けないと思っていた声。
常夏の君。
私のことを、そう呼ぶ人は。
―――忘れるわけがない。忘れようとしても、決して忘れられなかったあの声は。
夕顔は扇を取り落とした。
瞳からは涙が溢れ出す。
おかあさま、と幼い娘が驚いたように声を上げる。女房たち皆が泣いていた。
懐かしいあの大きな手で、簾が上げられる。そこに立っていたかつての恋人を、夕顔は泣き顔のまま見上げた。
その後、一体どうなったのかなんて、言うまでもない。
「………やれやれ。いいことしたな」
五条を去りながら、光が満足げに頷いている。
「…………何なんです?これ」
走り回らされた惟光が、肩で息をしながら光を見上げていた。
「んもう惟光、わからないかな。私は今、我が人生における重要な岐路のひとつに立っていたんだよ。ああ、ありがとう!全て君のおかげだ!今後もこの調子でいこう。頼むよ」
「………………」
主人の奇行を哀れんだ惟光は、鴨川の水で手を清め、清水寺の方角に向かって静かに合掌した。
***
翌日。
破滅への道の一つを無事に叩き折り、上機嫌の光に、かけられた声があった。
「光る君さま。……君にはもう一生、頭が上がらない。君は俺の主君で、俺は臣下の末席だ」
陣定の会議が終わった後のいつもの内裏で、頭中将が恭しく頭を下げてくる。
光は顎を上げ、恩着せがましく頷いて応えた。
なにせ自分は、夕顔の君を見つけたことを彼に知らせ―――実際に知らせたのは惟光なのだが―――頭中将との奇跡の再会をアシストした功労者である。
久しぶりに見た本当に幸せそうな義兄の顔を眺めながら、光は昨日のことを思い出す。
夕顔の君と頭中将の再会を見届けて、それから。
ーーー早く葵と、あの朝の続きをしたい。
その一心で、それは急ぎ足で左大臣邸に帰ったのに…………この義兄のせいで、おあずけを食らっていることを。
***
頭中将が、夕顔と彼女の娘の瑠璃姫を、実家である左大臣邸に連れてきたのはあれからすぐのことだった。
当然、屋敷は大混乱である。
帰ってきたはいいものの、葵に会う直前になってドギマギし出し、意味なく足踏みとかしていたせいでこの騒ぎにぶち当たった光は、自分のシミュレーション能力の無さを呪った。
少し考えてみれば、当たり前の展開である。
だって、夕顔には行き場がなかった。
この京の都の、どこにも。
彼女が姿を消したのは、頭中将の正妻・右大臣家の四の君から脅迫されたからである。
そんな彼女を、頭中将が表立って迎え入れる訳にはいかない。
かといってーーーこの左大臣家で匿うのも政治情勢的に危ないのだが、光と違って自己肯定感が死んでおらず、お坊ちゃま育ちで恋愛脳パリピの頭中将はそんな風には考えない。
五条の下町から牛車で乗り付け、夕顔の君と瑠璃姫を抱き上げて左大臣家に飛び込んできた長男に、左大臣は頭を抱えていた。
夕顔の君は可哀想なほどに恐縮し、身を縮ませている。幼い瑠璃姫を抱いた彼女は、まだ娘の葵よりも幼く見える少女だった。
長男はといえば、悪びれる様子もなく堂々とした態度。教育を間違ったのだろうか。
そして妻の大宮の方はといえば、もともと子ども好きの彼女のこと、初孫である瑠璃姫に夢中である。
「………………………」
端的に言って、混沌だった。
胃のあたりを押さえ、また右大臣から嫌味を言われると呻く彼に、こう申し出たのは入り婿の光である。
「義父上、そう嘆かないでください。彼女にはどうぞ、私の屋敷を使ってください。他ならぬ義兄上の頼みなのですから」
「……………!」
左大臣が、目を見開いた。
未来って変えられるんだ~、とるんるんの光は、いつにも増して爽やかに笑っている。
「義兄上の愛妻であれば、私にとって義姉上も同じ。私も、彼女には幸せにお暮らしいただきたいですから………」
「なんと。そんなにも、我が家を思ってくださるとは―――」
左大臣ははらはらと涙をこぼした。女房や従者たちも皆、それに続く。
彼らがオーバーリアクションなのには理由がある。
今回のことは、右大臣家から見れば宣戦布告の序曲なのである。
平安時代の政略結婚は、ただ単なる家同士の繋がりではない。
男に生まれたなら誰しも、婿入りした先の家に後ろ盾になってもらい、衣食住の面倒を見てもらい、出世を支えてもらうのだ。
それ以外の道はないのである。
ヒモ…………?とか、考えてはいけない。
“ 男は妻がらなり”とは、時の関白、藤原道長の言葉である。
男の出世や幸福は全て、妻になってくれた人のおかげです。
そう言い切るこの言葉は、三男だった自分が政権を取れたのは全て、時の権力者、源雅信の娘であるあなたと結婚できたからですと妻の倫子を称えるものだが、この時代に異例の出世を遂げた大抵のやつにはこれが当てはまる。
光だって、そうだ。
後ろ盾とか皆無の光が今の地位にいるのはひとえに葵と結婚し、左大臣家の後ろ盾を得たおかげなのだから。
だから頭中将の場合は、婿入りした右大臣家との間に風波を立てるような行動は危ない。
ヒモが愛人を囲ったりしたら当然、妻の父親はキレるどころの騒ぎではない。
「我が家をコケにするのか!!」と、右大臣に怒鳴り込まれる恐れがあるのである。
いや怒鳴り込まれるだけならまだ、いい。
元々、覇権争いを繰り広げる政敵同士の家柄である。宮中を巻き込んで、政界がハルマゲドンしてしまう。
………だが、夕顔の君が二条の屋敷で暮らすのであれば少しは事情が違ってくる。
あの屋敷は左大臣家とは関係のない、光の私邸なのだから。
光は頭中将から矛先を自分にずらして、両大臣家のハルマゲドンを防いだことになるのだ。
左大臣邸での光の評価はうなぎのぼりである。
………最も、光の頭にあるのは政治的判断でも思いやりでもなんでもない。
「いいかよく聞け、頭中将。絶対、廃院には連れて行くなよ!!」
これだけである。
だが、そんなことは左大臣や頭中将は知らない。
左大臣と大宮の方の暮らす対屋の部屋に、幼い瑠璃姫の、はしゃいだ声が響いた。
雛人形に色とりどりの着物にと、大はしゃぎの大宮の方が贈り物攻めをしているのである。
生まれたその時から、貧しい生活を余儀なくされていた瑠璃姫には、初めて目にするものばかりなのだろう。瞳を輝かせた幼い姫君は、それは可愛らしかった。
そばの夕顔の君にも、大宮の方は優しい視線を向ける。
ここで「賤しい女のくせに息子をたぶらかして」とか「我が左大臣家に下賤の血を混ぜた」とか言わず、また思ってもないところが左大臣夫婦のいいところである。
愚息が苦労をかけたね、と御簾ごしに左大臣に言われて、目を丸くしておろおろと頭を下げる夕顔に、光は笑った。ごん、と義兄に肘鉄を食らわせてやる。
ーーーあの夢の中で、自分のせいで無残な最期を遂げた夕顔の君が、生きている。その隣で、頭中将が嬉しそうに笑っている。
左大臣が、大宮の方が。
葵の大切な家族の皆が、幸せそうに笑っている。
ああ、よかったと、光は思った。
これでやっと、心置きなく葵のもとへ帰れる。
そう思ったのである。
夕顔は数日間、この左大臣家に逗留したのち、瑠璃姫とともに二条の屋敷へ移る予定である。
提案しておいてアレなのだが、二条の屋敷側の準備がいるのであるーーー光が私物を持ち込みまくり、完全に左大臣家に住み着いたせいで、二条の家は閑古鳥が鳴いているのだから!
出来るだけ早く、屋敷の支度を頼みます。
新しく、姫君を迎え入れるための支度をーーーなんて、そう書いた文はもう、惟光に頼んで届けてある。
今頃きっと、二条の屋敷の女房たちは大張り切りだろうな、と光は苦笑した。
もう5年間も、主人の長期不在に張りのない日々を送っている彼女たちのことである。
誤解を招きそうだったから、もちろん、それが誰かも伝えてある。
自分の言動はいちいち都中に筒抜けなので。
だってはたから見たら、光る君が別邸に女を囲っていると思われかねない。
まあ夢の自分はまさにそんなことしてたけど……と、思い出しかけて光は頭を振った。
違う違う。
今、二条の屋敷に迎え入れるのは若紫の姫君ではなく、夕顔の君。
さらってきたのは自分ではなく、頭中将。
そして彼女は自分の恋人ではなく、頭中将の妻である。
大丈夫。あの夢とは違う。
そう、だから帰ったら今度こそ、葵に………。
「………私を、好きになってくれましたか。私を……」
夕顔の君が同じ屋敷にいるのも忘れて、赤い顔の光がぶつぶつと独り言を言う。
葵に会う前の練習である。
前科がありまくる自分は、また噛みそうで怖いので。
光は、知らなかった。
葵が同じ夢を見ていて、夕顔の顔を知っていることを。夢の光が夕顔の君を、それは深く愛していたことを知っていることを………。
ーーーそんな葵が今、彼女と顔を合わせたら、どんな誤解が生まれるのかを。




