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11.未来の帝の言うことには


後宮は光にとって、一番の鬼門である。


元服までを暮らした思い出の場所で、そして。

かつて会いたいと恋焦がれた人が、決して会ってはいけない人が。

あの夢に出てきた自分にとっての、永遠の人が。

今も、暮らしている場所だからだ。


ぶんぶんと光は勢いよく頭を振った。

この敷地内にいる時は、油断大敵だ。何せ、破滅への道(フラグ)の宝庫である。


義母上にも、その女房の王命婦(おうのみょうぶ)にも、絶対に鉢合わせするわけにはいかない。

そして父帝に会うわけにもいかないーーー新しいネタの提供を求められても困る。


紫の花の咲き乱れる藤壺を通り過ぎ、生誕の地である桐壺をスルーして、光は一心不乱にとある殿舎を目指した。


はたから見れば、 まさしくあの夢の一幕に見えるだろう。

実父である帝の后妃との禁断の恋に溺れる光る君そのものだ。


ーーーだがもちろん、違う。


幸いなことに、見咎める者はいなかった。

光る君として生まれた自分の才能はとどまることを知らず、光はその気になれば何の苦もなく、無音のまま廊下を高速移動することができるのである。


普段あまりやらない理由は、高速移動中の動きがキショいからだ。

だが今は緊急事態である。


超スピードの抜き足、差し足、忍び足で、なんとか目当ての殿舎に滑り込んだ光は、かけられた声に飛び上がった。


「…………見えてるぞ。光」


その殿舎とは、弘徽殿(こきでん)である。

光の実の兄、後に朱雀帝(すざくてい)として即位する東宮が、笑いを堪えながら立っていた。



***



弘徽殿(こきでん)は後宮の中で、帝の住まう清涼殿(せいりょうでん)から最も近い殿舎だった。

それは、暮らす女御の位の高さを意味する。


豪華な調度品が所狭しと並べられ、きらびやかに飾られた部屋。

高価な香の匂い。

美しい衣を纏った、大勢の女房たち。


まさに、右大臣の娘であり、後宮で最大の勢力を誇る弘徽殿女御(こきでんのにょうご)に相応しい場所だった。


亡き中納言の娘であり、北の外れの桐壺にひっそりと暮らした光の生母、桐壺更衣(きりつぼのこうい)とは何もかもが正反対である。


光の兄である東宮は、そんな弘徽殿女御(こきでんのにょうご)を母に持つ若宮だった。


細殿の向こうから、女房たちの声がする。


東宮が、しーっ、と口に指を当てて、光を招き入れた。何年経っても変わらない、記憶にあるままの優しい兄の姿である。

それを見るだけで、光は幼かったあの頃のようにホッとして、全身の力が抜けてしまう。


「あ、兄上ぇ……」

「なんだ、どうした。ほら、もう、そんなところで座り込むな」


そう言って笑う兄に手を引かれて、光は東宮の居室に入った。

勉強の途中だったのだろうか、机には本がいつくも広げられている。

本の山をどけ、東宮が光に円座をすすめてくれた。


「……また誰かに、何か言われたのか?私にできることなら、言ってくれ。力になってやるから」


五歳の頃から変わらぬ言葉である。

懐かしさに光の目が潤んだ。


「兄上……!わ、わかるのですか?」

そんな、縋るような声が出てしまう。


「そりゃあな。お前が私のところに来るのは昔から決まって、何か困り事がある時じゃないか」

東宮がそう言って、眉を下げて笑った。


母親似の光にはあまり似ていない、父によく似た面立ちの兄である。

光る君が自分なら、兄は博識で温和で、それでいて見上げるほどの偉丈夫と称えられたものだ。


弘徽殿女御からは堂々とした華やかさを、父の桐壺帝からは深い色をたたえた瞳を、兄は受け継いでいると光は思う。


(だけど、父上とは違って………兄上は………)


心の中で呟いた光に、兄の瞳が向けられている。幼い頃から変わらない、その優しい瞳が。

「兄上〜〜っ」

思わず泣きつきそうになって、光はハッとした。


(葵はもと兄上の………ふたりは許嫁で………葵に好きな人がいるなら、それは兄上だと思ったから、私は………)


それでここに来たのだ。

そう、気付いたのである。


ーーーそれを確かめて、どうするというのだろう。もし、葵の好きな人が兄上で、兄上も葵を好いていたなら。

ふたりを引き裂いたのは他でもない、この自分である。


「いえ……なんでもありません……」

しゅんとする光に、東宮が笑い出した。

「下手くそ。そんなんじゃ、北の方と想い合えるには、何十年もかかるな」


―――私のところにも、噂は流れてくるんだぞ。けどあんな噂を真に受ける奴は、まだまだお前の初心者だ。


大笑いの合間に、そう言って東宮が目尻の涙を拭っている。


「うっ………何十年もは、できればかかりたくないのですが……」

「うーん、でもなあ。お前は賢そうに見えて、こんな風に抜けてるからなあ」


「う」


「それに好きになったらそれはもうずーっと相手につきまとって、困らせる変な癖がある」

「えっ!なんですかそれは。初耳なんですけど!?」


「あと突っ走る癖もあるから、もしかして相手の気持ちも聞かずに、その顔の力でなし崩しで………」

「う、うわああああ!兄上!?」


東宮の笑い声が大きくなった。


「はあ、おかしい。おっと、だめだ……皆に聞こえるな」

声を落とした東宮が振り返って、肩をすくめた。

その瞳に少しだけ影が差す。


「私がここで帝王学を学んでいる間、お前はもう宰相中将さいしょうのちゅうじょうとして会議に出ているんだろう。会える時間は少なくなったが、お前は相変わらず有名人だからな。噂が聞こえてくるたびに、お前のことを思っていた」


「………どうせ、碌でもないものばかりでしょう。仕事中、葵葵葵ってぼーっとしてることとか」

「よく知ってるじゃないか。そうだよ。だから私は、それを聞くたびに新婚生活はうまくいっているようだな、と…………そう思えて、嬉しかったんだ」


「あ、兄上………」


光は思わず気遣うように、少ししか歳の変わらない兄を見上げた。

どうも自分の周りはできた人間が多すぎる。おかげで自分のポンコツさを思い知らされる日々である。


東宮が眉を上げた。

「なんだ、その顔は。私は気にしてなどおらんよ。元々、母上が決めた政治的な話だ。私と姫は恋文を交わしていたわけでもないのだから」


「…………え?」


光は目をぱちくりした。

兄が自分に気を遣って、そう言ったのだろうか。それとも頭中将が言ったあの言葉は、葵の………。


葵がもし、東宮を好きだったのなら。

元服のあの夜、自分の恋は叶わないのだと悟ったのだったとしたら。

葵の初恋を終わらせたのが他でもない、自分なのだとしたら。


東宮妃(とうぐうひ)女御(にょうご)、そして中宮(ちゅうぐう)と、女性としてこの国でいちばんの身分になる未来も、自分の子が次代の天皇になる未来も。

葵からそのすべてを奪った光る君との結婚である。


(そうだ。それなのに葵は、私にあんなに優しくしてくれたんだ………)


元服の夜のことだ。

いや、それだけではない。

それからも、毎日ずっとーーー。


「葵には、好きだった人がいるからなあ……」


胸に突き刺さった頭中将の声が、耳に蘇る。

あれはてっきり、兄上のことだと思ったのに。


「幸せか、光」

聞かれて、光は遠慮がちに頷いた。


結婚してからの話を、光はぽろぽろと兄に語った。

都を駆け巡る噂とは程遠い、本当の話を。

かっこ悪いところだらけの話だった。

口を挟むことなく、頷きながら笑って聞いてくれる兄を見て、ああ、と光は思った。


ーーーああ、私は、誰かにこの話を聞いて欲しかったんだ。


「兄上、私は葵が好きで………好きで好きで、仕方がないんです」


優しさに甘えて、兄に、こう言いたかった。

葵が好きだと。

葵ときっとお似合いの、これから帝になるあなたにも、渡したくないと思うくらいに。


「でも………でも兄上は………あっ、それに私はここに来るの、禁止されてたんじゃなかったっけ!?うう、私はまた考えなしに……突っ走り癖が……」


「いいよ、別に。これからはいつでもおいで、光。母上や父上には、内緒にしといてやる。それで、なんだ?まさか姫にも変なことして嫌がられたのか?」


「そんなわけないでしょう。ていうか“も”って!違いますよ、ただその、………口を吸ってもいいか、聞いたら……あ、兄上!何笑ってるんです!」


「いや………くく、それはお前が悪い。やめてくれ、腹が痛い。あーあ、お前に突っ走られて、姫はさぞかし驚いたことだろうね」

「………兄上なら、きっとうまくおやりになるのでしょうね。元々の許嫁だったのですし」


「いじけるな。そんな仲じゃなかったって言っただろう。だが、そうだな……お前がそんなに夢中になるほどの姫なのかと思ったら、私も少し気になるなあ」

「あ、兄上……!」

「冗談だ」


ーーーこんなに悩んでるお前を見るのは珍しいから、わざわざ口に出してはやらないけど。

そう、東宮は心の中で呟く。


弟の語った結婚生活の話が、胸の中にこだまする。

もじもじと照れくさそうに、けれど幸せそうに、その口から紡がれる物語が。


優しい言葉をかけてくれる。

目を見つめて、笑ってくれる。


たったそれだけのことが、この弟はこんなにも嬉しいのだ。


―――光。何もしなくても、たぶん、もうきっと。姫は………。


政治的な話。恋文を交わしていたわけでもない。その言葉は紛れもない本心だったはずなのに、なぜか無性に悔しくなって、東宮は自分に苦笑した。


「なんだ、光。私に妬きもちでも妬きに来たのか」


そう言ってやれば、弟は見事に頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。


目の前でいじける光を見ながら、東宮はまた、くしゃっと顔をしかめて笑った。

ぽんぽんと、小さい頃のように弟の背中を撫でてやりながら、昔と同じように励まして、笑わせてやる。


兄弟ふたりきりで、こうして話せたのはいつ以来だろう。


「宴を抜けて来たんだろう?ほかの皆は大丈夫か。お前の幸せな夫婦生活について、激論が交わされてるんだろうに」

「うわ、なんで知ってるんです!?」

「光る君の宿命だ」


そう言って笑ってから、東宮はネタバラシをした。


「お前の噂はここじゃ特に、早く回るんだよ。たまには後宮にも顔を出せよ、光。口には出さなくても皆、お前を恋しがってるんだよ。私のところにだけは忍んで来る、なんて知れたら、私が女御様方に恨まれるじゃないか」


兄のおどけた声がおかしくて、光も笑った。


「いいえ、駄目ですよ兄上。“ちょっと、近づかないでくださる。あなたがいると仕事にならないの!”って、私は内裏に勤める幼馴染に言われているんですから」


「大輔の命婦か。お前、またそんなこと言って。今度は“人のせいにしないでくださる!”って怒られるぞ」

「うっ、言えてる。内緒にしてくださいね、兄上」

「わかったわかった。お前と大輔の命婦とのことは、葵の上には内緒にしておいてやる」

「………兄上!冗談が怖すぎます!」


むくれる光に、東宮がまた笑う。


「だって、人気者だからなあ、お前は。内裏の女房たちだって、お前が物忌で参内しない日には打ちひしがれているだろうよ」

「……たとえ皆に言われても、好きな人に想ってもらえないんじゃ何の意味もない。兄上………そんなものは星の数ほどもありすぎて数えきれないとお思いでしょうが……、兄上にあって私にないものって何でしょうか……」


「そうだなあ。とりあえず、身長とか?」

光は唸った。ぐぬぬと喉が鳴る。


東宮にも頭中将にも、光はいまだに身長で勝てないのである。

かろうじて十五の頃に葵を抜かし、今は見上げられるほどになったので、まあよしとしているのだが。


「こないだ頭中将にも言われましたよ、それ」

「え?あいつには和琴もあるだろ」

「兄上………。お詳しいですね」

「お前のことはな。自慢の弟だからな」


光は口をへの字に曲げた。

それは明らかに自分の言うべき台詞だった。

面映いことこの上ない。

開き直って聞いてみた。


「…………では背も普通で和琴も下手な私のいいところって、何でしょうか。いつでも無駄に後光が差してるところでしょうか?」

「夕方の薄毛みたいな言い方するな。誤解を招くだろ。そうだな………服をいつでも、古来からの作法通りきちんと着ているところ。どういうこだわりなんだ?倒れるなよ。暑いだろう、それ」


「いやこれは………あの……宮中の平和が」


「ああ……なるほどな。そんなに葵の上にだけ(・・)、かっこいいって言われたいのか。光る君にしかできない、高度な惚気だな」


東宮はそう言って肩をすくめた。

わざとうやうやしく膝をついて、弟の着物を直してやる。

頭中将たちがしているように着崩してやると、たちまち色気たっぷりの光る君の出来上がりだった。


「………言ってもらえるといいな。光」

そう言って、背中を叩いて。

これから左大臣家へ帰っていくのだろう弟を、東宮は目を細めて見送った。



***



さて、光が牛車に乗り込んだその頃。

左大臣家の庭には、少女たちの楽し気な声が響いていた。


葵の女童(めのわらわ)たちの声である。

広い庭の一角で、飼っている(すずめ)を遊ばせているのだ。


「………ほら、こう。こうすると、手に乗ってくれるのです」

仲間たちにそう教える声は、あてきのものだ。

まあ、愛らしい手乗り雀ですこと。そう笑う中納言の君たちの声で、葵は物思いから覚めた。


自分を見つめる皆の顔を見て、恥ずかしげに目を伏せる。

物思いに沈む自分が心配されているのだと、気付いたからだ。

傾きかけた陽射しが、池水に反射して庭を照らしている。


ーーー葵、早く私を好きになって……。


ぼうっとしていると、そんな夫の声が、耳に蘇ってきて。


あの時、一体、なんと答えれば良かったのだろう。

あれから毎夜、夫から抱きしめられても、答えは出ないままだ。

葵は赤く染まった頬を隠して、まだ御所にいるだろう夫を想った。


夫に抱きしめられる度に、葵は胸にはあの夢の続きが浮かぶ。

女君たちの声がこだまする。

六条御息所の声が、藤壺女御の声がーーーそして。

今はまだ五条の下町にいるはずの、夕顔の君の声が。


「光る君………」

「光さま」

「………あなた」


そう、夫を呼ぶ彼女たちの声が。


夫が帰ってきたのは、そんな時だった。

てっきり、宴にでも顔を出すに違いないと思っていた葵は慌てて出迎えた。


季節は夏である。


ーーー相変わらずの暑さだ。酒でも飲まなきゃやってられないぜ。宴の後には、ともに美しい女房方を訪ねようじゃないか。


そんな兄の声が、いかにも聞こえてきそうな暑い日なのに。


「光さま……。お早いお帰りですこと」

何だか厭味ったらしい言い方になってしまった。

だって、牛車から降りて来た光は。

衣を色気たっぷりに着崩して、照れたように笑う、きっと都中の誰よりも美しい夫は。


ーーーこれから、あの人たちと。


そう思いかけて、葵は慌てて頭を振った。

この思考回路は破滅への道(フラグ)である。

咳払いをして、言い直すことにした。


「おかえりなさいませ。光さま」

「ただいま、葵。………ああ、会いたかった」


応える夫の言葉は斜め上だった。

「まあ、毎日お会いしていますのに」以外の気の利いた返答が咄嗟に思い浮かばず、葵は微笑の形に表情筋を無理矢理コントロールするという、いつもの手に出た。


我ながら、ワンパターンな手である。

だって夢に出て来た彼女たちは、もっと。

もっとこの夫の喜ぶことを。笑顔を、言葉を。

何でもあげられるはずで…………なのに。


なのに、それだけで夫は真っ赤になった。


「…………!?」


葵は思わず俯いた。

そんな顔をされると、思い出してしまう。

あの夢をではなく、現実を。

紀伊守邸で言われた言葉を。

思い出して、つられて自分まで、真っ赤になってしまう。


「あ………………」

夫も思い出したらしい。顔を背けて、袖で覆っていた。

頬を染めて、そのままの距離感で固まる二人。


「……………!!」


誰からともなく上がった、女房たちの黄色い声が、対の屋に響いた。

庭の雀が皆逃散したせいで、その日のあてきは大忙しだった。



***



その後はずっと、葵はいつもの部屋で首を傾げることになった。

周りの皆の態度からして自分も人のことは言えないだろうが、夫の様子がまたおかしいのである。


「………んんっ。ふ〜、暑〜い」

そう言って、光が脇息に寄りかかる。


意味のない咳払いも、珍しく着崩されたラフな格好も、光る君がするならなんでも美しい。

左大臣家の女房たちは頬を染めて、黄色い声をあげていた。


中納言の君も、中務も、皆。


「……………」

たったひとり、光の妻、葵の上その人を除いて。


つられて自分まで、真っ赤になってしまうーーーなんて、さっきの言葉は取り消しである。

つん、とした澄まし顔が、いつの間にか胸に浮かんだモヤモヤの隠れ蓑になっていることに、当の葵は気づいていなかった。


(………内裏でも、こうなのかしら。こんなふうに、皆に言われて、騒がれて………)


頬を膨らませそうになって、葵はきっと口を結び、絵巻物の姫君に相応しい澄まし顔を作った。


ちらちらと夫から向けられる、謎の期待の視線もよくわからない。

何も言えないでいると、中納言の君と中務から、つんつんと肘でつつかれた。

二人が楽しそうに目を見交わしている。


「…………?」

眉をひそめる葵を見ながら、光がまた咳払いをする。

そのままもう一枚、衣を緩めて、また葵の方を見る。


その頬が赤いことに、葵は気付かない。


確かに、今日はうだるような暑さだった。葵自身も、夏の装いである単袴(ひとえばかま)を纏っている。


透けるその衣の下に見える白い腕で、す、と葵は扇を振った。

とある女房のひとりに向かって。


ーーーあの夢に出て来た夫の恋人たちの中で、自分に最も近しいはずの彼女に向かって。


***


誰かが近づいて来る気配とともに、涼しい風が光の頬を撫でた。

暑い暑いと騒ぐ自分を、扇で煽いでくれたらしい。


―――やっぱり、葵は優しいなあ。思ってた反応とは違うけど……好きだなあ。


そう思って顔上げると、そこには愛しい妻がーーーではなく、妻の女房のひとりがいた。


(…………んっ)


恥ずかしい勘違いに光はむせた。

改めて目の前に座る女房を見る。


いつも葵のそばにいる、中納言の君や中務ではない。

だが、妙に見覚えのある顔ではある。さて、名前はなんと言ったか。


頭に浮かびかけた夢の一幕を追い出して、光は記憶の中を探そうとし、途中でさっさと諦めた。


「………中将(ちゅうじょう)の君。もっと煽いで差し上げて」

そう、葵が指示を出す。

光はすっと手で扇を止めた。


「…………うん、ありがとう。なんかごめん。もう大丈夫だから君は下がってくれ。葵」

「えっ、はい……?」

「こっちに来て。……お願いです」

「…………?はい」


葵が夫にじり寄る。さらさらと、生絹(すずし)と呼ばれる薄物が柔らかな音を立てた。


目を逸らしつつ、もっと、もっとと光が手招きするので、葵は体がピッタリとくっつくほど、すぐそばまで来ていた。

呼び寄せたくせに、いまいち視線が合わない夫を、葵が遠慮がちに見上げる。


「……ごめんなさい。お暑いのかと」

「んっ、いえ……そりゃたしかに暑いけど、そうじゃなくて。………あなたが………」


脇息から身を起こして、光が葵の耳元に口を寄せる。

「あなたが、葵が……ドキッとしてくれないかと思って」

「…………!?」

ひそひそ声で言われた言葉に、葵は扇を落としかけた。


「………しませんっ」

「ええー。私はいつもしてるのに……」

光がそう言って葵を見つめ、また目を逸らす。


葵はどういう反応が正しいのか分からずに、口を尖らせた。

「………あなたに………ドキッとする人は、それは多いのでしょうね。わたくしでなくても………」


「まさか。あなたがいない場所でなら、私はこんな格好はしない。私がドキッとして欲しいのは、あなたにだけです」


「…………………!?」


思ってもなかった答えに、言葉が出ないどころか葵は頭が真っ白になった。


「………ほら。だから言いましたのに」

「姫さまを見つめる光さまは、いつも御酒を召されたみたいな顔をしてらっしゃいますもの。ね」


そう、中納言の君たちが耳打ちしてくる。

葵はむしろそれは体調不良なのではないかと心配になった。葵の頭には、いまだに根強く体調不良疑惑が残っているのである。


「葵………お願い。かっこいいって言って」


葵の心配をよそに、光がそんなことを言う。

“御酒を召されたみたいな顔”のままで。

葵は真っ赤になった。


「み、皆の前で何を……!あんまり変なこと言うと、もう一緒に寝てあげませんっ」


夢の葵も顔負けの冷たい声で、夢の葵なら言いそうもないことを言って。

葵はつんと顔を背ける。


「ええーーーっ!そんなあ!!」

光が叫んだのは言うまでもない。

でも。

これで悲しんでくれるなんて、と葵は涙が出そうになった。



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