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10.光る君とからかい上手の兄弟たち

家庭内で何が起ころうとも、それで出仕(しごと)が休みになったりはしない。


蝉時雨(せみしぐれ)が響く夏の御所。

長い長い朝議からやっと解放された光は、ふうと息を吐いて、入道雲の浮かぶ空を見上げた。


庭から、陽炎(かげろう)が上がりそうな暑さである。


平安時代の夏は気候学上、現代に匹敵する暑さを誇っていた。

だから夏を詠んだ歌のほとんどは「夏の夜は〜」と、夜限定で良さを捻り出しているのだ。


朝議を終え、あとはもう家に帰るだけの貴族たちは皆、着物をゆるく着崩している。


ーーーただひとり、光る君を除いて。


常より一層、堅苦しく束帯(そくたい)を着込み、物思いに沈む光る君。

相変わらずの美貌は、猛暑の中でも健在である。


だが本人としては、それを誇っているわけでも、帝の御前だとかしこまっているわけでもなく、これには理由がある。


ーーー平安京のスーパーアイドルたる自分、光源氏が人前でラフな格好なんかすれば、女房たちが鼻血を吹いて卒倒し、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の嵐になるに違いないとわかっているからだ。


別に自惚(うぬぼ)れているわけではない。


「ふ〜、暑〜い」などと言ってこの前やったら実際にそうなったのだ。

背筋を伸ばし、衣の中を流れる滝汗を誤魔化し、それでも羨望(せんぼう)の眼差しを一身に浴びながら、光は心の中で思った。


暑いことは、この際どうでもいいのだ。光の頭を占めるのは、いつも、ただひとつだけ。


返事(・・)って何だよ!?もう結婚してるんだから返事も何もないだろ!でも………ああああああああああ!)


***


「もう帰るのか、光る君。つまらん男だな。君が来なくちゃ、宴だって興が乗らない」


頭を抱えてうめきながら、惟光(これみつ)に引きずられていく光の頭上から、そんな声が掛かる。

見上げれば、色気たっぷりに衣を着崩した頭中将(とうのちゅうじょう)が立っていた。


「相変わらずの暑さだ。酒でも飲まなきゃ、やってられないぜ。君も来いよ。宴の後には、ともに美しい女房方を訪ねようじゃないか?」


彼が何か言う度に、御簾(みす)の奥で女房たちの黄色い声が弾ける。


女房たちへ向けられた流し目も、わざとらしく髪をかき上げる仕草も、彼がやるとどうして、こんなにも様になるのだろう。

光は脱力して答えた。


「……悪いね、頭中将。こんな暑い夜に、男ばかりで集まって酒を飲むなんてね。真夏の夜に相応(ふさわ)しいのは、夜風に吹かれながら、美しい北の方の寝顔を眺めることですよ」


何か言うたびに心の中は(ああああああああああ!)なのだが、涼しい顔で光の言葉は続く。


「宴の誘いなら、ご遠慮します。愛しい妻が、私の帰りを待っているのでね」


流し目を真似て、そう言ってやる。

頭中将が鼻を鳴らした。


「ふん。あーあ、君の妻が、俺の妹でさえなければなあ。夜這(よば)いをかけて、この俺の(とりこ)にしてやるのに。その時の君の顔が見たいぜ、光。幸せそうにしやがって」


「君の虜に?この私の妻を?君、それは難しいんじゃないかな?」

「難しいだって?おいおい、誰に向かってものを言ってるんだ。この平安京一の色男に!」


頭中将が笑った。

楽しげな、自信満々の声である。

光はふと悪戯心を起こした。


「平安京一の色男?」


聞き返しながら、髪をかき上げて見せる。

きゃーっと、途端にさっきよりも大きな声で女房たちの歓声が上がった。


顔を(しか)める頭中将に、通りかかった公達(きんだち)たちが笑っている。


「けっ。調子に乗るなよカマトトが。あーあ。俺の可愛い葵も、家ではお前に赤くなったりしてるのかなあ……」

「そ………、そうですよ。そりゃもちろん……羨ましいですか、義兄(にい)さん?」


ぎこちなく答えてから、光は縋るように義兄を見た。


「けど………ちょっと聞きたいんだけど、その、えっと、………葵に好きになってもらうには…………」


そう、光が声をひそめ、プライドも何もない相談をしようとした、その時である。


「おいおい、聞いたぜ!光る君さま。葵の上とお忍びデートをしたんだって?方違えを口実に使って、わざわざ夜に?いい度胸だ。天下の左大臣家の姫君をかっさらうとは!」


「一晩だって妻と離れていられないのか、光る君。お熱いことだな!おっと、逃げるなよ、そんなに早く帰りたがるなんて、家で何をするつもりだ?こんな真っ昼間から!」


そんな、馬鹿でかい声が響いてきたのは。


「………………。」

光は額に手を当てた。

声の主なんて、振り向かなくてもわかっている。


宮中の悪友連中、左衛門督(さえもんのかみ)東宮大夫(とうぐうのだいぶ)達だ。

振り向かなくてもわかるのは無論、こうして揶揄われるのが初めてではないからである。


大内裏(だいだいり)の門を守る左衛門府(さえもんふ)の長官に、次代の帝たる東宮(とうぐう)の秘書ーーーどちらも将来の出世が約束された役職だ。


光の隣でさっと礼をとる惟光に、二人が愛想良く手を振ってくる。


荒っぽいくせに甘いその声音は、どこか頭中将に似ていた。

それもそのはずで、彼らは左大臣の側室の息子なのだ。

頭中将の腹違いの弟たちであり、葵にとっては腹違いの兄たちである。


揶揄う声の後ろから、ヒューヒュー!と合いの手が上がった。

同じく左大臣の息子、左中弁(さちゅうべん)の声だ。


普段は真面目に、朝廷の各官庁を指揮する弁官(べんかん)を務める彼が、悪戯っ子の顔に戻って兄たちの後ろから顔を覗かせている。


顔を合わせれば、すぐこれだ。

反論しようと振り向いたところで、ぐ、と光は息が詰まった。

頭中将にベッドロックをかけられたのである。


「さすがは光る君。俺の妹は幸せ者だ」

「…………、〜〜〜っ!」


もがく光の脳裏に、いつかの夢が蘇る。

覚えておいでだろうかーーーそう、光の夢に出てきたあの男は、親友の頭中将にも、というか誰にも、自分の恋を秘密にしておきたがるおかしな癖があったことを。


(………もしかしてあれは………内緒の恋に興奮する性癖とかじゃなくて普通に………)


図らずも、わかるはずがないと思っていた夢の自分の気持ちがうっかりわかってしまった光である。


光はとりあえず、「………頭中将!」と、しつこく絡んでくる義兄その1を振り解いた。

いくら自分が全知全能の光源氏でも、いい加減、息が苦しい。


そして、摩訶不思議なことに。


(なんで知られてるんだろ〜………ちゃんとバレないようにしたはずなのに。情報源どこだ?)


言うまでもなく、先日の方違えの話である。


義兄たちはそれぞれ、実家の左大臣家ではなく婿入りした先で暮らしている。

この時代では、それがごく当たり前だった。

だから住んでもいない実家での妹夫婦のあれこれを、リアルタイムで知りえるはずがないのだが………。


ーーーせっかく一緒にいられるのに………。離れたくありません。


葵に、そうおねだりしたあの夜、その場にいたのは………。

光は頭をひねる。


まずは葵本人とその女房たち、それから女童たちだ。そして対の屋は違うが当然、左大臣と大宮の方。そのお付きの女房、従者たち……。


(………ほぼオールスターじゃないか)


もはや誰を疑ってよいかわからず、光は頭を抱えた。

それから首を振る。


「………いや、人を疑うのはよそう。むしろ、私かな?会いたすぎて震えるあまり会議中に葵の夢見て、皆の前で寝言でも言ってるのかな?」


「なーに、馬鹿なこと言ってんだ、光!会議中の居眠りはいい加減、やめた方がいいぞ。父上の発言の時だけ律儀に起きてくるのもバレバレだ。右大臣があんなに睨んでるのが見えないのか?」


そう言って肩をすくめた頭中将が、笑みを含んだ声で言う。


「聞いたぜ。家で父上と酒を飲み交わしてる間中、葵を探してそわそわしては、女房たちを困らせてるんだって?寝所に行ったら行ったで、葵の顔が見れないなんて、君はこの五年間、一体何をしてたんだ。今更葵の香にドキドキするなんて、カマトトぶるな。香の焚きしめられた衣の下の隅々まで、もうみーんな知っているくせに!」


「なっ、頭中将!こ、衣の下までって………!………ん?」


頭に浮かんだ妄想を吹き飛ばし、赤い顔のまま、光は義理の兄に向かって怒鳴った。


「…………君かああああ!」



***



「君かよ!何考えてるの、変なこと言いふらすな!葵が嫌がるだろ!」


そう食ってかかっても、頭中将は涼しい顔である。


「なんだ、今更。都の噂に上るのなんていつものことじゃないか。毎日のように源侍典(げんのないしのすけ)に聞かれるから、俺はお前の代わりに答えてやってるんだ。感謝しろよ」


「あ、ああ……うん、それはありがと。ファインプレーだよ義兄さん。……毎日?君、一体どこで源侍典(げんのないしのすけ)としゃべってるんだい」


あの夢に出てきた源侍典の面影が、光の脳裏を通り過ぎていく。


源典侍は桐壺帝の信頼厚い、古参の内裏女房である。年は今年で、五十七になるはずだ。

雪のように白い髪を長く垂らした彼女は、宮中に聞こえる琵琶の名手である。


そして、そんな彼女の最も特筆すべきところはーーーいくつ歳を重ねてもまるで少女のように、きらめく恋愛の中にいるところだ。


だからあの夢に出てきたということはつまり、言うまでもなく………。


もう一度頭を抱え、感謝半分、恨み半分に尋ねた光は、頭中将の答えに耳を疑った。

いつものように軽い調子で、頭中将はこう言ったのだ。


昼の御座所(・・・・・)だけど?」と。


「………ん?父上の……じゃなかった、帝のおられるあの?」

「それ以外にどこがあるんだよ。主上も、君の武勇伝にお笑いになっておられたよ」


源典侍の主な仕事は帝の身の回りの世話である。

そしてこの義兄は忘れがちだが、そう言えば帝の秘書なのだ。


「………げっ」


思わぬ情報漏洩スポットに気付き、光はもう一度、額に手を当てて天を仰いだ。


「なんだ、げって」

「いや……父上が知ってるってことは当然、義母上も……」


ーーーまあ、ふふふ。ふふ、もう、主上ったら。

そう、あの笑顔で帝に寄り添う藤壺女御(ふじつぼのにょうご)の姿が浮かぶ。


愛妻家の桐壺帝は、彼女に何でも話すのだ。

なぜか光のこととなると、特に。


「あああああああ。頭中将、君のせいで………」


(また義母上に笑いのネタを提供してしまった……しかもこれで父上は義母上にウケた!とか思ってまた聞くだろ………それでこいつ話すだろ………噂になるだろ……ああ負のスパイラルが)


光は頭を抱えてしゃがみ込んだ。


最近の自分がとっているポーズの中で最も多いのはこれに違いない。

どんな情けないポーズを取ろうとも、見事な仕立ての着物は動きやすさ抜群。光に取れないポーズはない。

さすがは葵お手製の着物である。


「ん?なんだ、暑気あたりじゃないだろうな」

「大丈夫か。そんな馬鹿みたいに着込んでるから」


義兄その2とその3が覗き込んでくる。

葵の兄なのだから当然だが、皆光よりも年上なので、言葉に遠慮がない。


「宮中の平和のためですよ」なんて返せばいよいよナルシストめいてきて危ないので、光は無言で口を尖らせた。

義兄その4が笑う。


「君だって、噂になった方がいいんだろう。入り婿の鑑だな。君なら葵の上のほかに、恋人が10人いても驚かないぜ!まったく、不思議で仕方がないよ」


「……………」


それを言われると、あの夢のせいで光は立場がない。

どんよりとうずくまる光に、頭中将がくっくっと笑っている。

光はじっとりと睨み上げた。


「君のせいだろ。何笑ってるんだよ」

「観念したまえ。君が婿に入ったのはこの俺の実家だ。左大臣家には俺の馴染みの女房がたくさんいるんだよ」


「嘘だろ………。一体誰だよ?名前は?ま、まさか葵付きの女房?君ってやつは妹の女房にまで手を出してるのか!?」


「そう怒るなって。うちの女房たちは皆、君が葵を大切にしてくれるのが嬉しいんだよ。俺だってそうだからね」


「んん………ならさ、そうっとしといてくれないかな?頼むから、私の初恋を邪魔しないで……」


拝む光に、頭中将は爽やかに笑った。


「それは無理だ。俺の可愛い妹といちゃいちゃイチャイチャしてる幸せな奴には痛い目を見て欲しい!」


「……………」

光は膝に顔を埋めた。


これでは、頭中将に相談するどころではない。

かと言って……彼以外の友人は全員、ヒューヒュー!の側に立っている。彼らが囃し立てるたびに話には尾鰭がついていた。

絶対に相談したくない。


「なんだ光る君、お疲れか?あんだけ居眠りしといてまだ寝足りないなんて。夜更かしのしすぎなんじゃないか?」

「俺もそんな風に夜更かしをしてみたいよ。さぞ幸せだろうな」


黙っているとまた、そんな揶揄い声が飛んでくる。

彼らの声がでかいので、通りかかった公卿たちが何事かと集まってきていた。


「羨ましい限りですな。昔は私にも、そんな頃があったものじゃが」

「おお、左様左様。とはいえ、私のような醜男では、光る君さまとは比べものになりませんがね。こんなお方を虜にする左大臣家の姫君は、さぞお美しいに違いない。お目にかかってみたいものじゃ」

「全く。……おっと、あまり言うと左大臣さまが怖い。お目こぼしを、ご子息どの」


白髪頭を揺らして、老臣たちが口々に言う。

話を振られた義兄たちが笑った。


「なんの、父上など怖いものか。我らが左大臣さまは、そんなことで目くじらを立てたりしませんよ!」

「さあ、よければご教示ください、先輩方」

「そうそう。光る君は我が妹以外、とんと経験のない奥手ぶりなのですから」


義兄達が、好き勝手を言っている。

顰めっ面のまま顔を上げれば、目の前には目を輝かせた公卿たちによる、善意のスクラムが出来ていた。

御簾の向こうには、同じく目を輝かせた内裏女房たちが集まっている。


「………………。」


たまたま、その後ろを弟の(さん)若宮(わかみや)が通りかかったのが見えて、光は「た・す・け・て」とジェスチャーを送ってみた。


後に蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやと呼ばれることになる彼は、桐壺帝の第三皇子だ。

光とは仲の良い、すぐ下の異母弟である。


優しい性格の彼は状況を理解したらしく、苦笑して、「む・り・で・す」とジェスチャーを返してきた。


脱力する光をよそに、公卿たちが、義兄たちの話す架空の自分の武勇伝を肴に、宴を始めている。

惟光を伴い、そーっと逃げようとした光へ、頭中将の腕が伸びてきた。


「逃げるなよ。さっき、俺には君の妻を寝取るのは難しいなんて言ったな?さあ、俺とお前、どっちの方が男前か、御簾の中に居並ぶ女房方に聞いてみたらいい」


光は顔を顰めた。

がっしりと掴まれた腕が痛いし、御簾の中からの期待の視線が痛い。

咳払いして、大袈裟に肩をすくめてみせる。


「んんっ………たぶん君の方が男前だろうけど、義兄(にい)さんは葵とは同腹のご兄弟ですから、葵は私って答えるでしょうね。私の一人勝ちですよ」


「なんっで判断基準が葵一人なんだよ!女房方にって言ったろ!」

「葵以外の人の基準などどうでもいいので……」

「ふん、愛妻家だな。でもその割に、“葵は私を愛していますから”、とは言わないんだな」


「!」


揶揄うように言われて、光は頬を膨らませた。

恨みがましく親友を睨む。

「………これから言わせるんですよ」


言い捨てた途端に、頭中将が笑った。

「………葵には小さい頃、大好きだった人がいるからなぁ……」


酒をあおって、酔っているらしい明るい声で、そんなことを言う。


「…………え?」


彼を振り切って、左大臣家へ帰ろうとしていた光は、途端に足を止めて、立ち尽くした。

葵の上の、昔、好きだった人。

そんな人の心当たりは、光にはひとりしかいない。


矢も盾もたまらず、光は駆け出した。

向かう先は、帰り道とは真逆の方向である。


「心配するな、君は頑張れば、その人に似ていなくもない。せいぜい頑張りたまえ、宮中のスーパーアイドル殿」


そんな揶揄い声が、後ろから追いかけてくる。

光は無言のまま、目の前に続く廊下をーーー内裏の奥へとのびる道を走った。


その道の続く先は、帝の妻たちの住まう後宮である。


かつて、桐壺帝の二の若宮だった光にとっては、どこよりもよく知っている場所である。

足を向けなくなって何年が経っても、たとえ頭が忘れていても、体が覚えている。


磨き上げられた廊下の、その先からは、ふと。

懐かしい、藤の花の香りがした。


***


「………やりすぎですよ。頭中将どの」

走り去る兄の後ろ姿を見ながら、三の若宮が苦笑する。


頭中将は眉を上げて答えた。

「何、可愛い妹をられたくないあまりの、兄の醜い嫉妬ですよ。家では毎日、葵の上(初恋の人)が待ってるなんてね………あいつはつくづく幸せな奴だ。そう思いませんか、若宮さま」


「おや。あなたにだって、毎日、訪れを待つ美しい妻がいらっしゃるでしょうに。よければ、ご一緒にどうです」


「ふん………右大臣家に行ったって、くつろげるもんか。どうせ妻からはまた、嫌味を言われるに決まってる。この俺に向かって!美人は美人だが、なんだってあんな気が強いんだ。ああ、御所での俺を見せてやりたい!俺の妻になりたいと願う女がどれだけいるか!」


思わぬ子供っぽい言い分に、若宮は笑ってしまった。

彼の妻である右大臣家の三の君は、頭中将の正妻、四の君の姉である。

二人は相婿(あいむこ)の間柄なのだ。


「私は楽しみですけどね。気が強くて、可愛い妻に会えるのが」


光に負けないーーー現時点では負けないも何も一人勝ちだがーーー愛妻家の彼が言う。


「妻は体が弱いから、こんなに暑い日が続くと心配だけれど……でも彼女が言うには、夏は楽しい季節なんだそうです。思えばあなたにも、お似合いの季節ですね。夏がお好きなんでしょう、頭中将どの。この時期には、いつにも増して明るくはしゃいでおられる」


ああ、と笑おうとして、頭中将の笑みはぎこちなく固まった。

右大臣家に向かう若宮を見送って、宴の中に戻る。

もう一度酒をあおり、らしくもなく吐いたため息は、宴の喧騒に紛れて消えた。


管弦の調べに、女房たちの笑いさざめく声。

濁り酒の匂い。大きくなる、仲間たちの笑い声。


頭中将の好きな、賑やかな宮中の風景だ。

けれど、いつも付き合ってくれる弟たち以外には、いるのは老臣ばかりだった。


妹にイカれているあのあんぽんたん(・・・・・・)は置いておくとして、いつも(つる)んでいる友人たちは最近、めっきり付き合いが悪くなってしまった。


なぜかといえば皆こぞって、とある貴婦人のもとへ通っているのだという。


ーーー繊細で気品溢れる、美貌の姫君。その手蹟()といい詠む歌といい、文章博士も顔負けの才女。


宮中の話題をさらっている彼女は、身罷(みまか)った先の東宮妃、六条御息所である。


いつもならそんな噂があれば、我先にと飛んでいくのが彼だった。

他の奴になんか渡すものか。

そう言って自信満々に現れれば、今まで虜にできなかった女はいない。


それなのに。

なぜ今、ここにいるのだろう。

もう一度酒をあおれば、庭で揺れる花がぼやけた。


だって、と心の中で、頭中将は呟く。


ーーーだって火遊びをするには、この季節はあまりにも………。


風が吹いた。

花々を散らす夏の風が、頭中将の呟きを隠す。


「………俺は、夏は嫌いだ」


葵によく似た端正な顔で、頭中将が視線を逸らす。

「どこにいても暑くて、庭には撫子(なでしこ)の花が咲いていて………」


―――もう会えないんだと諦めたはずの、常夏(とこなつ)の女を思い出す。

そう言って、彼は内裏に背を向けた。


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