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第八十七句

「なんで僕は……」

 内裏には入れないような、布切れを繕ってできた服に、伸び放題になった髪を後ろで一つにまとめている。体格だけが取り柄と言ってもいいような男性が女性を脇に抱えていた。動いてはいないので気絶しているだけのようだ。


 目元は髪で隠れていてよく見えないが、口角が上がっているのがよく見える。背後に光る月を味方につけたような風格をしながら立ち上がって女性の重そうな着物のの首元だけを掴んだ。


(何か変な動きをしたらあの女性が落とされる……!)

(だがこのままでは逃げられるだけだ)


 一切塀から降りることなく、たまに持つ手を変えて見たり足の先で持ってみるなどして遊んでいた。あちらが何かするたびに心臓が止まりそうになる。すぐさまみゆきが剣を構えたが、いづみの手が出てきてそれを止めた。


「だめだ。アイツは私たちを挑発するためにやっている。乗ってしまったら思い通りだ」

「でもじゃあ、どうやって……」


 先ほどいづみが戦った影狼のように、頭の切れているものに遭遇してしまった。恐らく、みゆきが女性を守るときに嚙みついた影狼の中に紛れて隠れていたのだろう。目立った行動を見せたり女性に気づかれなかったら自分たちに隠れて誘拐することができる。


 どこぞの村人をコピーした姿を見つめていると、いきなりいづみが走り出した。ついて来ようとしたみゆきを止め、一人で来た道を戻っていく。


 しばらくして帰ってくると、廂に置いてきた桶を手に持っていた。両手で口を覆って耳打ちをすると、みゆきは一瞬納得したが信じられないとでも言うような表情へ即座に変わった。チャンスは一回だ。桶を渡され、両手を肩にクロスさせながら掴むように持った。





 溢れそうなくらいに入った水、それを持つ震えた手。助走をつけるために御簾を紐で縛り、足を思いっきり踏み込んだ。息を大きく吸ってから走り出して廊下の板を蹴ると桶を横にして水が飛び出すようにした。


 何とか池の周りの岩を掴んで落ちるのを免れ、そこに座り込むと水が影狼に向かって進んでいくのを見た。あと半分、あと少し、もう目の前――。後ろで止まってしまった水たちがどんどん地面に落ちて染み込んでゆく。その中でも影狼の目の前で親指ほどの大きさをした雫が大きく光を放った。


『いつ見きとてか 恋しかるらむ』


 水滴からいづみが出てきた。能力を解除したことで影狼の目の前に現れることができたのだ。空中で体を縮めながらも上半身だけを動かし、弾丸を正面から額に撃った。後ろに倒れていく影狼は女性の手を離す。最初は四つん這いに何ながらも立ち上がってみゆきが女性をキャッチした。


 何事もなかったように眠る女性に腹以外の傷跡はついていない。影人になる可能性はないだろう。念のため『医者』に診てもらおうという話になった。


 荒らされた部屋を綺麗に片付け、なるべく違和感のないようにする。女性を抱えながら姿見に行くと、鍵はかかっていなかった。


 最近、姿見にできる扉は稀にしか見ないようになった。その代わり毎回賢い影狼が指揮を執っている。この先もまた影狼が強くなっていくかもしれない。いづみと協力して、部屋に戻ると医務室に向かった。『特別医務室』と書かれた看板を見てから入ると十メートルほど廊下が続いており、一面ガラス張りのドームのような場所で止まった。


 外の庭園がよく見え、自然に囲まれている。『医者』は白衣に手袋をしながら真剣な面持ちでお辞儀をした。引き渡して医務室を出ていくと、その前にある扉で話をした。


「みゆき君は、診てもらわなくていいのか?」

「はい、僕はすぐ治るので」


 そう言って裾で作った即興の包帯越しに腕をさする。心配した表情を向けたが、そんなことも知らずにかかって来た電話に出た。


「あ、錦君!どうしたの?」

『ううん。話したくなったから電話しただけだよ。今大丈夫?』

「全然大丈夫!」


 電話の相手は錦だった。他愛のない話をしていたが、いづみはそれをほほえましく聞いていた。電話が終わると話題は錦になった。


「錦君、すごいんですよ。とっても頭がいいんです!」

「あぁ、君によく話を聞くから知っているよ」


 錦とみゆきは大の仲良しで、互いに館にいても電話やメールを毎日のようにする。館内でも知れ渡ったことだ。不意に二人を遮るように扉が開いた。『医者』の治療が終わったらしい。女性はなんのことやらと戸惑いながらも二人と共に姿見の部屋へ行った。薬を渡す。言われるがままに内裏に帰っていった。


 体を前のめりにし、上半身を姿見の中に入れていたみゆきはいづみを呼び止めた。


「見てください!」

「これは……すごいな」


 そこにはちょうど、朝日が昇る内裏の景色が広がっていた。

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