第七十一句
「誰が馬鹿だって?」
もしタエが本人ではなく、その姿に化けた影狼だとしたら説明がつく。
まず、三日前に影狼がタエをさらって姿を変える。わざわざ誘拐までしたのは、消えたと同時に行方不明者が出たことを噂好きたちが妖だのなんだのと言って流してくれるとでも思ったのだろう。
次に二日前から今日にかけては同じだ。「香を配りに来た」なんて理由を付けて男性たちの家へ入り、寝室という無防備な場所で噛んで影人にする。まさか、好きな人に毒を入れられるなんて思いもしなかっただろう。影狼として家から出て古い森へ行くように指示を出し、一人になったときに香を焚けば昼までの犯行も可能だ。これなら家から森へ運ぶ手間も省ける。
今手当てをされに行った三人の男性は暴れはじめているだろう。行った方向へ走ると、一軒の家から悲鳴が聞こえた。他より一回り大きい家の扉を開けると、かき乱された部屋の中に数人が転がっていた。女性、子供、老人。その全員がどこかしらに深くひっかかれた傷を負っていた。三人の姿はどこにもない。
(遅かったか……)
小さく舌打ちをしてから、男性たちを見つけたという古い森へ向かった。
森の場所はわからないが、とにかく行ってみようと姿見まで戻ろうとしたとき、見覚えのある顔とすれ違った。その男性は顔面蒼白で何かを必死に探しているようだ。呼び止めると、昼頃に廊下で授業を行っていた者――少年の父親だった。どうしたのか聞いてみると、口を震わせながらゆっくり話した。
「息子が……息子がまだ帰ってきていないのです」
「えっ⁉」
『子供のすることは予想外』とは言うが、そこまで来るとは思わなかった。だが場所には見当がついていた。父親に事情を説明すると、あきれたような顔でため息をついていた。
「申し訳ありません。止めなかった僕の責任です」
「いいえ、うちの愚息がとんだ真似を……」
使用人総勢で探していたらしく、相当大切にされていることがわかる。必ず見つけ出さねば。父親曰く森は姿見を過ぎてもっと奥にあるそうだ。悪い予感が胸に溜まりながら走り始めた。
少年は嘘をついた。古い森の奥で必死にタエを探していたのだ。影すら見つからないままおどろおどろしい森をさまよっていた。さすがに突発的過ぎただろうかと後悔しつつも、進んでいった。後ろから、自分の影にかぶさるくらい大きな影が出てきた。震えながら振り返ると、そこには丁寧な手当てをされた男性がいた。自分を追って戻ってきたのだろうか。早く帰るよう言おうとした途端、腕を強くつかまれた。
「何を……」
見上げると、今までなかった目の赤い光がこちらをにらんでくる。恐怖のあまりそこから動くことができなかった。しゃがんできて見えた牙は人のものではない。そのまま大きな手が顔の前に来て――。
触れられる前に男性の側頭部に何か鋭いものが当たり、勢いを失わないまま木に頭が衝突した。たちまち倒れてはっきり姿が見えたそれは鮮やかな紅葉が柄に描かれている槍だ。当たったのは柄の先端なので死んではいない。そのあとすぐに駆け付けたのは稚児服に似た服を着た青年、錦だった。
「あ、いた」
「なんで……あなたがここに……」
「なんでって、君が嘘ついたから……えっ⁉」
少年の顔を見ると、こらえるような顔をしながらも大粒の涙が出ていた。中身はちゃんと子供なんだなと思いつつまた気配を感じた。
「君は逃げるんだ」
「でも、こんなに囲まれた中でどうやって逃げたらいいのですか?」
はっとして周りを見渡すと、すでに影人やら影狼やらに囲まれているではないか。片手で少年を抱えると木の上で降ろした。困惑の表情を浮かべつつ木にしがみついたのを見ると耳打ちした。
「よく聞いて。僕が肩を触るまでは目を閉じて耳を塞ぐんだ。それまで心のなかで数を数えて、僕がいくつで戻って来たか教えて」
少年が小さくうなずいて言った通りにし終わると、一気に表情が変わった。




