第六十三句
「ごめんな……」
その叫び声は、森の深くまで進んだ二人にもはっきりと聞こえた。方向的に町のほうだ。影狼がいないことを見てから行くと一人の男性が森の手前まで来ていた。
「お前、何があった」
全力で走り去る男性の着物の首元をつかむと、あからさまに動揺していたが鼻をすすりながら答えてくれた。
「あ……歩いてたらいきなり俺の妹が小さな女の子に肩を噛まれて……。叱ろうと思ったらもういなくて……妹がっ、いきなり俺をひっかいてきてっ、怖くて――」
だいぶ取り乱している。震えている左手が押さえていた二の腕からは血が広がって見える。どんな言葉をかけたらよいのかわからず、無言になってしまった。膝から崩れ落ちた男性の背中をさすった淵は焦った顔でつくしに話した。
「俺は一回この人から事情を聴く。君は町に戻って影狼と影人を探して倒すんだ。影人は一般の人だから、絶対に殺すなよ」
「はっ、俺に命令なんて勇気あるな」
どこまでも腹が立つ性格をしている、と言ってやりたかったが今はとにかく時間がない。つくしは危機感のかけらもないような足取りで町に戻った。
町の空気は騒然としていて、さっきまでゆったりとしていた時間の流れが倍速くらいの速さになっていた。こちらに逃げていく者はおらず、我先にと出ていく。手前に残っているのはふらふら歩きながら爪を立てた人間だけだ。
『影人の特徴は、影狼と同じ牙、爪、そして赤い目だ』
早口だが少し気取った口調で話していた淵の言葉を思い出しながら、武器をしまって簡単にストレッチをした。鞘のない刀なので影人相手に使ってしまうと気づ付けるに違いない。走り出すと、不規則に並ぶ影人たちを踏み台に蹴りながら移動した。一人一人と目を合わせながら、跳び蹴りをしている。彼にとっては武器を使うほどの相手ではなさそうだ。
一旦着地すると、今までの行動を見ていた影人たちがぞろぞろ周りに集まってきた。追いかけると先ほどと桁違いなほどに素早く逃げていった。博士から、影狼と同じくらいの身体能力を持つとは聞いていたがこれほどとは。跳び蹴りをすると同時に膝を曲げ、首の上に体を引っ付かせると腕を首に巻き付けて強く絞めた。しばらくもがいていたがあまりの力の強さにすぐ気絶した。
後ろからの気配に気づき、振り向きながらかかとをその背中に当てた。「がっ」とかすれた声を出しながら倒れていく。追いかけているときに後ろからつけられていることに気づかず、間合いに入られやすくなってしまったがそれをチャンスのように攻撃し続けた。笑った顔には影がありどこか既視感があった。
地面に転がる影人たちを見てから、奥の人々が避難した場所へ向かった。まだ多くの話し声や叫び声が聞こえる。すっかり赤くなった手をぐっと握ってから、和歌を唱えた。
『わびぬれば 今はた同じ 難波なる』
男性から事情を聴いた。どうやら、妹が噛まれる前にも何人かが噛まれていたらしい。だいぶ落ち着いてきた男性の顔を見ると、一気に現実に戻されたような心地になった。目が――赤いのだ。今までの話は嘘なのだろうか。その瞳孔がこちらを覗いてきたとき、反射的に距離を開けると男性は力なく立ちあがった。
「あぁ、バレたか」
「お前……騙したな」
「やだなぁ、コイツにはちゃんと妹がいるよ。ま、二人とも同時に噛んだけど……ねっ!」
牙をむき出しにしながら襲ってきた。淵はケインを横に持って噛ませると手を離して腹を蹴った。一瞬の出来事だったので男性は処理できず転がり回る。ケインを取り返すと砂ぼこりの先には姿を戻した影狼がいた。
互いに激突寸前まで近づくとケインを振るが避けられてしまい、足をひっかかれた。血が流れ出る感触がしながらも足で体を持ち上げて顔に一発当てて気絶させた。相当耳に近いところだったので驚いただろう。
なぜ、影狼は一匹だけできたのだろうか。なぜ男性だけはこちらへ逃げてきたのだろうか。一つの考えが浮かんできた。時間稼ぎだ。淵はワイシャツをちぎって作った包帯を足に巻くと町へ走っていった。




