第四十七句
「貴方しか愛しません」
よく目を凝らすと、女性が影狼に触れる直前に周りに薄い膜が見えた。シャボン玉が人間にぴったりと吸い付いたような感じだ。徐々に気づき始めて逃げられたが、その分の距離ができた。
槍を前に構え直し、自分の右側に影狼の列が来る方に向いた。腕が痛くなりながらもカーディガンの裾をちぎって折れたところをつなぎ合わせたつなぎ目をしっかりと握った。応急処置なので多少緩い部分はあるが、大きな問題はない。流れ作業のように切りつけ、それでいて一匹一匹に丁寧に力強く刃を入れていく。必死に対応をしようとして目の前に出たものもあるが、少し背中側に引けば勢いが増してすぐに倒れた。
夢は必死に影を消した。女性の不思議な能力に圧倒されているところを静かに殺そうとしたのだ。端からそっと刀を首元に軽く当て、それに気づいて振り向かれた瞬間には皮膚に触れた。あまりの気迫に声すら出せない。勘のよく周りのものが気付いてもついでに素早く刃を移動させた。
だがやはり量が多く、まだ半分以上倒せていない状態で遠くの影狼が吠え、一気に散らばった。多分「油断するな」とでも伝えたのだろう。目を合わせて挟み撃ちにでもしようかと考えたものの、今の二人に対する警戒は大きいので避けられてしまうだろうと思った。さっきよりは動いていないが体力が完全に回復したわけではない。
新しい策を練っていると大きく手を振った者がいた。女性だ。周りは誰もおらずこちらの密集状態とは真逆だ。重い着物を汚さないように引きずりながら正面に移動すると影狼たちを指さしてから手をひらひらさせて「こっちに来て」のジェスチャーを取る。最初のうちは理解できなかったが、ふしが大きくうなずいた。夢にも耳打ちすると、そろって真剣な目をした。
「そんな近くにいて僕たちから逃げられるかな?」
「早く逃げないとじゃないのか?」
伝わっているかはわからないが、全力で突進した。普通なら襲うところだがさっきまでの行動でどう動くかわからなくなっていた。そもそも一番上のリーダーをなくした今、敵を囲む以外に方法はないのだ。歯向かうものが誰もおらずに逃げ続けると前のほうにいた影狼は何やら布のようなものを踏んだ。前を向くと女性が得意げな顔で立っているではないか。思い出したときにはもう遅い。二、三メートル近くにいた影狼は吹き飛ばされ、後ろの方にいたのはそれにあたって共倒れだ。なんと滑稽な事だろう。
そうした二次被害が続き、残ったのはほんのわずかだ。茂みに入ったが、ふしは葦を切って視界を良くしながら距離を縮めていき、足場の悪い中で一回転すると目の前に着地した。着地すると同時に驚いて足を止めたのを見逃さず、大きく槍を振った。
「……倒しました」
「やったのね!」
「はぁ……疲れたぁ……」
くたびれる二人の前で満面の笑みを浮かべた女性を見ると、つられて笑った。もう遅い時刻だ。この我儘なお嬢様の屋敷では一体何が起こっているのやら。
「それでは、失礼します」
「……最初から分かっていたわよ。嘘をついていたなんて」
「「えっ⁈」」
「本当は異人さんでも、案内役でもないんでしょう?」
これが女の勘というやつなのか。とても恐ろしい。別れる前に夢は懐から革でできた小さな袋を出した。
「妖の呪いがまだ残っているかもしれません。これを飲んだら浄化できます」
「ありがとう」
「水などがなくても飲めるので、帰っている間にお飲みください」
女性はくるりと背を向けて帰っていった――かと思いきや、駆け寄ってきた。
「そういえば、戦っているときにこれが落ちていて……」
袂から取り出したのは鍵だ。顔を見合わせてそれを受け取ると、女性はもう一度振り返って歩き始めた。
女性からもらった鍵は姿見にかかっていた南京錠にぴったりはまった。なんやかんや言って、今回はあの女性に助けられてばかりだ。
部屋に帰ると、綺麗に洗われた鍋と五枚の皿が台所に並べられていた。
「僕たちで作ったスープ、喜んでもらえましたね」
夢の言葉にふしがぽかんとした顔で返す。
「あれ、一緒に作りましたっけ?」
(なるほど、能力の代償ね……)
能力の代償として、一緒に料理をしたことが現実ではなくなってしまった。だが、それが楽しかったということに気づけたので決して後悔はしなかった。
「昨日は姿が見当たらなかったようだったが、どこにおったのだ?」
「すみません中宮様。裏の森で散歩をしておりました」
宮中では、女性が「中宮」と呼ばれた高貴そうな女性に話しをしていた。
「ずいぶんと長かったな」
「えぇ、実は……すいません、忘れてしまいました」
「そうか、思い出したらまた聞かせておくれ」
夢が渡した「記憶をなくす薬」の入った袋は空になっていた。




