第三十九句
「なぜ私がこんなことを……」
露の携帯が鳴る。向かいにいた夏来は隣へ移動し、携帯から漏れる微かな声を聴いていた。
『もしもし』
「博士、どうされましたか?」
『いや、実は相談なんだけど……さっき雪君から電話があったんだ』
博士はゆっくりと、雪が紅葉の場所を聞いてそこに送られたことを話した。
『もしかしたら、一人で紅葉君を助けようとしているのかもしれない』
「「本当ですか⁈」」
思わず声がシンクロする。影狼に噛まれた者がどれほど有害かはわからないが、少なくとも雪一人の力では敵わないだろう。
『まだ姿見はその場所のままにしているよ。どうするかは君たちに任せる』
「わかりました、では。」
電話を切ると、タイミングを見計らったように高嶺が部屋へ入ってきて真剣な目をこちらへ向ける。
「僕としだりさんが行くよ」
「でも、なぜしだりさんを……」
「これはしだりさんと紅葉君の問題だ。僕がサポートする」
はじめは苦い顔をしていた二人は心配になりながらも首を縦に振った。
何匹にも連なって出てくる影狼にアイスピックを刺し、投げるを繰り返す。雪は何の寒さも感じぬまま白い息を吐いて動きを止めなかった。
(いままでずっと隠してた。怒ってるとか悲しんでるとか。主もそうだったから……)
頭の中に出てきたのは主の光孝天皇が天皇になったときの様子だ。前任の甥に任されると思っていたのにまさか自分だなんて。しかも、決めた者が刀を抜いて民を恐喝させるなんて。実際に会ったことはないし、話したこともないがわかる。我が主のその時の顔を。『絶望』だろう。雪は煤がついている部分だけ体が重くなったような気がした。
邪魔なものがなくなり、動きやすくなったのでさっきよりも全力で影狼に追いつこうとする。影狼の周りから囲んでくる行動は単純だが苦労した。足に着くまでに膝を曲げて牙を避けると、衝突し合っているの良い着地台として頭に蹴りを食らわせる。そこで動けなくなったものもいたが生憎こちらには足が二本しかない。ざっと七、八匹に見えた影狼たちは岩に当たった滝の水滴のように飛び散った。それも結構距離がある。一匹一匹倒すのには時間がかかる。ふと、足元に転がっている気絶した影狼を見つけた。その険しいまま停止している顔を見てよいことを思いついた。
いつまでたっても襲ってこない雪に疑問を抱き始めた影狼は、約五メートルほどの間隔でばらけてきた仲間と首をかしげていた。
「アオーン!」
これは仲間の遠吠えだ。これは「集合」の合図だろう。再度顔を見合わせると戻ることにした。円状に散らばっている他の仲間にも伝言ゲーム方式で伝えると一斉にゆっくりと元居た場所に集まった。木の下にいたのはいつもの仲間が顔を下に向けながら動かないでいる。特に何も感じないまま近づくと後ろから小さく高い声が聞こえた。後ろを向くと、倒れて灰になり始めた仲間の一匹とブーツをはいた背の高い男性――雪がいたのだ。
数分前――
雪は近くにあった木から伸びた枝の下に影狼を寝かせる。何か結べるもの、蔦などを探したがなかったので仕方なく自分のトレードマークともいえる赤いマフラーを外した。首には腕や服と比べ物にならないほど煤が付いていて、元々首の色が黒かったとも思える。よく触ってしまうのだろうか。
雪はマフラーを半分に折って中心を確かめるとできた薄い線が腹に来るように影狼を括って持ち上げた。子供の自転車一台分はあるその体を慎重に抱えたまま木へ登ると先端を固結びしてだらんと垂らした。幸い、周りは暗くてマフラーは見えにくく、長さもちょうどいいので不自然ではないだろう。
(準備はできた。あとは……)
息を大きく吸い、一つ言い放った。
「アオーン!」
初めてにしては上出来ではないだろうか、なんて一人で笑っていると枯れ葉の避ける音が聞こえた。すぐさま木の上に隠れ、影狼たちの様子をうかがっていた。
『動揺』の二文字で頭がいっぱいな影狼たちを次々と刺してゆく。逃げたとしても数メートルがやっとですぐに追いつかれてしまう。その目に浮かぶのは怒りと悲しみだった。雪は再度、倒れている影狼に綺麗なお辞儀をして海人を探しに行った。
雪は海人と合流する。お互いの大きな怪我はないことを確認すると雪はまた歩き出した。訳が分からないまま海人はついていく。しばらく歩くと、さっきよりもさらに暗く、十メートルも歩けば姿が見えなくなるだろう。相変わらずの落ち着いた目で雪は目を合わせる。
「ここから先は、僕一人で行くよ。海人君は姿見の周りを警備するんだ。戻ってきてまた戦うのは面倒だからね」
「でも、雪さんは何をしようとしているんですか?普通の影狼だったら僕も倒せるのに……」
「……でも、海人君はこの森を一人で行けと言われたら怖がらずに行けるかい?」
言葉に詰まる質問だ。再度、森に目を向けると確かにおどろおどろしい。それを考えるとこれは雪なりの気づかいだろう。完全に納得はしなかったが姿見を守ることにした。
(それにしても、雪さんはあんな森にまで行って何をしたいんだろう……?)
海人が見えなくなったのを確認すると止まりもせずに森へ踏み入る。だんだんと胸を締め付けられていく圧と、厚着をしているはずの体が凍るように冷たくなった。それでも足がすくむことはなく、圧がかかってくる方に引き付けられていった。
(海人君には言えない。だって、これは僕が初めて一人でした判断なんだ)
雪は大抵周りに合わせて行動している。だが昨日、そんな雪は初めて一人で決断したことがあった。――紅葉を一人で助けようと。博士の予想したことは本当だったのだ。言ったら周りに反対される。一人で何かを決めることは、こんなにむず痒いことなんだということがわかった。
足早に先へ進んでいると急に背筋がゾクリとした。隠しきれていない不安を掻き立てるその空気は右から風と共に流れてくる。そこにはこれから春に向かうというのに何やら葉が流れてきた。形的にこれは萩だろう。だが色はどれも黒い。顔をすれ違ったと思うといつの間にか血が流れているではないか。
(この葉、なぜこんなにも鋭い……?)
マフラーで顔を隠しながら大量に流れてくるそれを避ける。だが、所々からマフラーの破れる音が響いた。そして、その先に見えた景色にこの上ない恐怖を感じた。
一方海人は、寒さに身を震わせながら影狼に備えていた。それにしても、なぜ雪はここへ来たのだろう。彼はたまに部屋にこもっているときがあるので、仕事の電話は大体自分か花、天つの三人が多い。それにいつも雪は仕事の前に一言言ってから行く。「行ってくる」とか「なるべく早く終わらせる」とか。それが今回に限って何も言ってこないなんて何とも不思議だ。頭の中でそんな考察が止まらなかった。
(どういうことだろう……。黙って行くなんて何か隠してるとしか思えない)
はっとして鉈を持ち直す。姿見の周りにいる影狼を倒すように言われていたことを思い出したのだ。扉に顔を向け、どんなものかを観察することにする。やはりきれいな装飾だ。どうやって一瞬にしてこんなことができるのだろう。隅から隅まで観察するため上を向くと、赤い二つの目が舌なめずりをしながらこちらを覗き込んでいた。
「……ギャーッ!」
何の障害物もない丘に海人の叫び声が轟く。鼓膜が変になっているはずの影狼は何事もなかったような顔で扉から降り、睨んだ。驚きはしたが影狼ならまだよかった。相手は一匹。仲間を呼ぶとしても時間はかかるだろう。
振り下ろした鉈は氷の溶けかかっている地へまっすぐ刺さった。影狼は左に余裕そうな動きで避けると扉の後ろへと隠れてしまった。恐らくこの影狼も誰かに指示されてここにいるのだろう。
側面に移動すると反発するように向かいの側面へ回られる。このままだと自分の三半規管が持たないと思い、鉈を左手に持ち替えて影狼の方へ投げた。当然ひょいとかわされたが、右へ回ったことを見逃さなかった。衝突する勢いで海人も右へ行くと影狼は突然のことに急ブレーキをかけた。ためらわずに首根っこを掴み、鉈を土から引き抜いた。動けないように黒い体を高く上げて叩き落そうとする。
だが、海人はバランスを崩して転びそうになった。なぜなら斜面になっていたからだ。影狼は予想よりも遠くへ、下へ降りてゆく。手を伸ばしながらまだ残っている右足の裏に力を込めてばねのように跳ぶと腹が触れるほど近づけた。両手で鉈を振り下ろす体制をキープしながら真っ逆さまに斜面を下っていく。同じ景色が続いてどこが終わりかはわからないが、いつでも着地できた。着地したのは坂のちょうど真ん中くらいだ。まだ意識はあるが動けなくなっている影狼に刃を入れ、ふと吹いた強風に乗って消えた。
今回は、「扉の周りにいる敵を倒し、守り抜く」という使命感が原因だ。離れるとまた新しい敵が来るかもしれないという考えになって影狼は決して扉から離れようとしなかった。それは海人も同じだ。だからそれを利用して、影狼の知らぬ間に一か所へ追い詰めていたのだ。限りあるスペースの中での精一杯の作戦だった。
坂は急ではないが、長さがあったので戦闘後の体に負担がかかる。やっとのことでたどり着いた扉の周りには誰もいない。一安心というか、寂しいというか。白い息を吐きながら扉の正面にちょこんと座り、また考え事をし始めた。
(主も……僕を創ったはこんな気持ちだったのかな)
ここにはないはずの大海原を想像しながら海人は目を閉じる。その途端、背中になにかが当たった。扉の装飾かと思ったが、思い出してみるとそんなに派手なものはどこにもなかった。怖くなりながらも振り向くと――驚いてまた丘から落ちそうになった。
「はぁ……はぁ……」
いくら攻撃してもきりがない。雪の前にいるのはただの敵なんかじゃない。怪物だ。もう体中は切り傷だらけ。半分諦めている部分もあった。
(なんでこんなに強い……。どんな原理なんだ)
もはや考えようとする言葉も出てこない。いや、出そうとしても出せない。それくらいに雪はパニック状態になっていた。攻撃のスピードは落ちず、何枚もの萩の葉が雪を襲う。それと一緒に細く黒い蔓のようなものがものすごい速さですれ違ってくる。それも十数本はあるだろう。上下に動くと葉が舞い落ちるのでこれはきっと萩の枝だ。ただでさえ葉が厄介だというのにその枝は雪を追いかけてきた。
アイスピックを構えるが頼りにならない。本来、アイスピックは投げるが刺すしかできないものなので枝を斬るなんて無理だ。今回ばかりは自分の武器を恨んだ。逃げるには十分距離が必要だが、あまりに遠いと枝がさらに成長してこの森自体が覆われてしまう。何か止められる方法を考えなければ。
(掴んでちぎる?いや、そんなことをしたら手が使えなくなる)
そう思いながら目に入ったのはやはり萩の葉だ。幸い、木の後ろにいて当たらなかったがしばらくそれを見ていた。なにか思いついたのか、口角を少し上げると何の障害物のないところに飛び出して針先を葉が流れてくる方へ向けた。まるで雪を待っていたかのようにに強風が押し寄せ、来るスピードが格段に上がった。顔の切り傷がまた増える。そんなことを気にせずにしばらくその状態で止まっていると、萩の葉がアイスピックに串刺しにされていった。
(これだけ鋭い凶器だが、さっき触ったときの強度は普通の葉と相違ない)
十枚ほど刺さったところで枝が風に乗ってこちら目掛けて伸びてきた。視界を悪くしながらも右上から左下にかけて大きく振るとたちまち枝の先端が切れ、足元に落ちた。やはり変な植物だ。影のように暗闇に溶け、よく目を凝らさないと見えない。
だがどうだろう。正面を向くと水が沸騰するような音を立てて再生し始めた。いつの間にか足元の枝も消えていた。
「っ――!」
予想外のことに雪はただ険しい顔をすることしかできなかった。
「しだりさーん」
「……」
高嶺は、もう十分はしだりの部屋の前で立っている。しだりは扉を開けるどころか話そうともしなかった。
「確かに、君の中で紅葉君が大切な友人なのはわかる。でも、このまま黙ってると本当に紅葉君がいなくなるんだからな!」
「……もし、失敗して紅葉が消えたらどうなるんだ」
ようやく口を開いてくれたようで、ひとまず安心した。
「ほら、そんなことを考えるから暗くなるんだ。紅葉君は助かる、それでいいじゃないか」
「……」
また口を閉ざしたと思うといきなり扉から「ガコッ」と重そうな音がした。扉が外れたのだ。突然のことに受け身を取る余裕なんてなく、急いで肘をついた。
「ほら、君が迷ってる間にこんなこともできるの。紅葉君が消えたのは影狼の『毒』のせい。こうしてるうちに体内に回って大変なことになってるかもしれないんだよ?」
始めはぽかんとしていたしだりは、その顔にある大粒の涙を拭くと、ゆっくり立ち上がって高嶺に真剣なまなざしを向けた。
「行くぞ」




