第三十八句
「この者が天皇だ!」
露が部屋に帰ると、深刻な表情をした夏来、高嶺、鵲、月が机の周りにちょこんと座っていた。
「しだり君は?」
「部屋にいるよ。先に事情を伝えた」
事情というのは多分、紅葉がいなくなった原因だろう。露もゆっくりと椅子に腰かけると高嶺が口を開くのを待った。
「――確証はないが、もし彼の主に伝わる伝説や本性に則ったなら……紅葉君は消えたんだ」
「消えたってどういうこと?」
高嶺はもう一回口を開いたが苦い顔をした。それほど苦しい出来事だというのがわかる。
「紅葉君の主、猿丸太夫には、ある人との同一人物説があるんだ」
「誰と?」
もどかしいくらいに言葉をためた。だが、言いにくいことなのかもしれない。
「しだりさんの主、柿本人麻呂だよ」
「なっ――」
思わず椅子から立ち上がった。だからしだりはここにいなかったのか。周りの人たちの背がぞくりとしたのがよくわかる。口を震わせながらも話は続いた。
「これはあくまで僕の見解だし、説も信憑性は薄い!でもっ、それがもし本当だとしたら紅葉君は消えるんだ!」
顔を押さえながら大声を出した。高嶺も相当焦っているのだろう。露は話を聞き終わるとしだりの部屋に向かった。扉はもちろん、鍵までしまっている。
「……しだり君、大丈夫か」
「……嘘だ。俺と紅葉がっ、同一人物なんて」
声の遠さから扉の目の前にいることがわかった。多分、誰も部屋に入れないためだ。声もしどろもどろになっているのでさっきまで泣いていたことがわかる。
「せっかく仲良くなれたのに……」
「あぁ、わかるよ」
露はどこか物憂げな顔で聞いていた。
「博士、お願いがあります」
雪は電話越しの博士に冷静な声で伝えた。
「紅葉君を探してください。そして、僕をそこに送るよう姿見を設定してください」
紅葉のことは高嶺から聞かされている。内容はわかったが彼が何をしようとしているかはいまいち理解できなかった。だが、できなくはないのでキーボードをカタカタと鳴らし始めた。
『あったよ。じゃあ、送るね』
コードの先にある大きな機械たちが古典的とも未来的とも思える音を鳴らしながら光っている。電話越しに鳴るキーボードと機械の音が止まると、いつも通りの禍々しい模様が映し出された。
「ありがとうございます」
『あ、あぁ』
電話を切るとためらうことなく中に入っていった。
いつも通りの風景を見ているはずなのに、海人は首を傾げた。
「みなさん、雪さんってどこにいますかね?」
皆口々に「知らない」というばかりだ。いそうなところを隅々まで探したが影すら見当たらなかった。残りは姿見のある部屋だ。恐る恐る入っていくと、博士からの電話がなかったにもかかわらず姿見に模様が写されていた。
(多分、雪さんがやったんだ。僕もできることをしないと――)
海人は怖くなりながらも姿見に入っていった。
急な冷風が海人を襲う。一面に広がるさびしい丘と共に目に入ったのは影狼と取っ組み合いをしている雪だった。膝くらいまであるアイスピックのような武器を両手に持ちながら軽々と近くにある木へ飛び乗ったり強く後ろに引いた腕を前に出してアイスピックを投げたりと器用なことをしていた。海人は思わず見入ってしまい、後ろの姿見に鍵がかかっているところなんて気づいていなかっただろう。
大きく跳んで雪の頭を越えようとした影狼は逆立ちをした両足に挟まれると身動きが取れなくなった。そのまま足を外して振り落とされるとクッションになった両肘が痛みだした。前を向くと戦い始めたときと同じ表情のままこちらへ向かってくる。残された足を使って後ろに進もうとするがアイスピックのほうが早かったようだ。
一瞬の出来事だった。雪は戦い終わると影狼にきれいなお辞儀を一つした。こちらには気づいていたようで右手を出すと上下にひらひらと動かした。
「雪さん!とってもすごかったです!」
「――そこ、危ないよ」
静かな声で言われたときにはもう遅く、海人は盛大にこけた。少し擦りむいただけだが結構痛い。足元を見ると小石が顔を出していた。
「探しましたよ。なぜここに?」
「……博士に仕事を頼まれた。一人でもできるやつみたいだから、海人君はここで待っていて」
確かに言葉としては違和感がない。だが、言い方に含みがある。何か隠しているに違いない。なんとかついていきたいと思って必死に言い訳を考えた。
「ほらでも!姿見に鍵がかかってますし、どうせなら僕にもお手伝いさせてください!」
手を顎に当てて迷っている。それほど危険なのだろうか。だがやはり何をしているかを知りたいし、こんな自分でも手伝えることがあるかもしれない。しばらくして苦い顔をしながらもうなずいた。安堵すると雪はくるりと体の向きを変えて丘の下にある小さな森へ歩き始めた。
さっきまで明るかったはずの空に月が見え始めた。気温と日の沈みの速さからして冬だろう。海人は両手をこすり合わせて手のひらに白い息を吐いた。
「寒い……。雪さんはいつもあったかそうな服装ですね、いつも仕事先が寒いから備えているとか?」
「えっと、まぁそうだね」
マフラー、コート、ブーツ。如何なる時でも雪はこの格好をしている。夏だとしてもそれらを脱いで過ごしているのは見たことがない。コートは前を開けており、中から白いパーカーが見えるがそれ以外は何も分からない。マフラーを口元まで上げると下がらないように片手をそのままにしていた。
そんな他愛のない話をしていると、何やら不気味な雰囲気がしてきた。雪は先ほどのアイスピック、海人は普通に持っただけでも地に着く大きさの鉈を取り出して構えた。途端に真上から影狼が落ちてきて雪は腹の真ん中を刺してその勢いで叩き落した。たちまち灰になるとほっと息をついた。
「海人君、後ろ!」
はっとして見るとあともう少しの所で足が噛まれるところまで来ていた。体ごと振り向き、鉈を半回転させて真っ二つに切った。慣れてはいるがやはり重くて操作しづらい。両側から大群が向かってきているのに気づくと、雪は二手に分かれようといった。迷うことなくうなずくとそれぞれが逆方向に走っていった。
海人は木の間をすり抜けてやってくる影狼たちに戸惑った。切れ味が良い分影狼ではない、例えば木などを切ってしまえば大惨事だ。影狼に当たる分ならいいが自分や周りに人がいて当たったら取り返しのつかない。この狭い環境で慎重にやろうと決めた。だが、それはそれで難しい。柄と刀身の間を肩に当てて担ぐと今までの右から左の振り方を上から下に変えた。大きな包丁を握っている感覚でバラバラな方向とタイミングで来る影狼たちを斬っていく。
肩や腕には疲労がたまっていき、鉈を持つことすら難しくなってきた。だが影狼は止まってくれる優しさを持ち合わせていない。足元に群がってくる影狼たちに動揺するばかりだった。
(どうしよう、このままだと本当に喰われる。誰も傷つけたくない!)
だが、鉈を振り下ろす体力はない。再び構えて目に入ったものに向かって笑いかけた。それは海人の何倍もある木だ。周りに誰もいないのを確認すると、鉈を背中に持っていく。胸の前でクロスさせた手を戻しながら鉈を手から離した。振り下ろすのには手間がかかり、負担も大きい。だが、横に振るならどうだろう。見事に木の根元に命中した鉈は深く刺さった。正面からはよく見えないが、大体半分よりも多くは切られているだろう。足はまだ動くので影狼たちを軽く飛び越えて少し離れたところまで走った。
当然影狼はついてくる。ぴったりとまではいかないがどれほど木の間を変にすり抜けてもだ。鉈が刺さっている木がギリギリ見えるところまで来ると影狼たちのほうに顔を向ける。横に広がり、鉈を取らせないようにするつもりだ。
手の感覚がじわりと戻ってきたのを確認すると一直線に駆け抜け、正面の影狼の頭を掴んで飛び箱の如く両足を広げて着地した。足が付くと同時に頭を痛そうに抱えている影狼が短く鳴くと後ろから一斉に飛び出してきた。決して後ろを振り向かず、見続けたのはやはりあの木だ。ゆっくりと前に倒れていくのを見て再び笑った。
流れるようにこちらへ来た影狼は海人の周りに集まろうとするが、寸前でぴたりと止まった。なぜなら、木が倒れてきているからだ。しかも自分たちがいる方向に。焦って逃げようとしたが、後ろに海人が立って押しているではないか。両足でストッパーをかけて力が分散しないようにして、手に力を込めた。たちまち木は倒れ、半分以上の影狼は下敷きになって溶けていく。残りの影狼たちは顔を見合わせてもっと森の奥へと消えた。
鉈を引き抜くと逃げていった影狼たちを追いかけた。間隔はそう広くない。数多の石が頭を出し、足場の悪い中でも前を向いて走っていく。もう、転ぶ心配なんて考えてもいない。目の前に立ちはだかった岩の壁すらも軽々と超えて目を離さないようにした。
とうとう止まったところは木が秩序よく並んだ道の真ん中だ。建物は周りにないが、人が通れるように整備されているのだろう。
「終わりにしましょう」
呼吸を荒くさせている影狼たちの前で鉈を振り下ろした。
(数が多い。なるべく無駄に動かないようにしないとな)
雪はアイスピックを目の前の影狼に投げた。紫の牙がおぞましく思える。うさぎのように飛び越えて避けた影狼は近づいてきて大きく口を開ける。何とか押さえると力技で振り落とし、後ろを向いて引こうとしている隙に刺した。高く悲鳴を上げてから倒れた影狼からアイスピックを引き抜くとまた次のものへと顔を向けた。
どんなに焦った状況でも顔を動かさない。それが雪だ。笑ったところは見たことがあるが、怒ったり泣いたりと感情が高ぶるところを見た者は誰もいなかった。
今まで少数で来ていたところを急に大勢で襲ってきた。前から順にアイスピックを噛ませて床に叩き落し、飛び掛かってくるものの腹に先端を向け、遠距離からくるのはダーツのように投げて地と共に刺した。大胆だが効率が良く無駄がない。まだ残党はいたので休むことなく取り掛かった。
(しのぶ君が前に言っていた……影人、はまだ見当たらないな。まぁ、人の寄り付かなそうな場所だから無理もない)
二本の連なる木にアイスピックを刺し、一回手を休める。目の前にはまだいるが気絶中なのですぐにはこないだろう。雪はコートの袖をまくった。汗は見えないがとても暑く、冷風に当てて乾かした。どちらかと言えば寒いほうが嫌いだ。だが、季節外れでもこの服装をしているのは理由があった。
(それにしても、露さんは不思議な人だ)
突如、影狼の目がカッと開いてこちらを見つめてきた。雪は急いでアイスピックを構えるがもうその時、雪の肌に牙がついた。
『君がため 春の野に出でて 若菜摘む』
雪の句能力:相手の行動を逆再生
たちまち影狼は後ろ歩きになり、倒れたところで止まった。雪は能力で影狼が気絶したところまで戻したのだ。ゆっくりと近づき、腹の真ん中を刺すと灰になっていった。コートには二つの小さな穴がある。だが肌には何一つ傷はついていなかった。
森のもう少し深いところへ入ると、そこら中から気配がした。何台もの監視カメラに挟まれているようだ。音を立てずに歩いていると急にパチンと枝の折れる音がした。手始めにコートがちぎられる。暗闇に紛れ、一度にたくさんの影狼のようなものが襲ってきた。刃を食いしばりながらアイスピックで押さえると、一定の距離を取った。
(動きにくくなってきた。……仕方ない)
周りに人はいない。雪はコートを脱ぎ、丁寧に木にかけた。そこから出てきたのは袖のない真っ白なパーカーと――そのパーカーや腕に染み付いた黒い煤だった。
数時間前――
『ねぇ、雪さん。いい加減やめようよ』
『……』
露は雪の部屋のドアの縁にもたれかかった。雪はその姿を何も言わずに見つめている。
『いやなことがあったときに部屋の壁を黒く塗るのは』
『塗ってません。こすってます』
手に持っている木炭の塊に目を移した。布団のそばにある壁にはもう身長を超えるくらいのぐちゃぐちゃとした円があった。幼稚園児でも描ける雑なものだ。雪はムスッと顔をしかめると再び作業に戻った。
『なんで素直に言わないのさ』
『いいです、その代わりにやっていることですから。これは僕がいつか調子に乗ってしでかさないようにするための戒めです』
『まじめだねぇ』
大きなあくびを一つした露に体を向けてもう一度しかめ顔になる。
『君の主は百人一首の中にいる天皇の中でも“徳のある天皇”とされているのに。もっと気楽に生きたらいいじゃないか』
『それはあなたもです、露さん。なのになぜ、あなたはそんなに寂しそうな顔をしているのですか?』
あくびがピタッと止まった。雪の真剣な目を見ながら微笑した。
『やだなぁ雪さん。老いがばれちゃうじゃないか』
露の低い声が部屋中に響いた。




