第三十六句
「俺は暴君じゃない」
――その頃、仕事もなく暇をしていた雪たちの部屋の扉がノックされた。
「はーい」
花が扉を開けると、急に息の詰まるような声を出した。
「貴方は……」
「やぁ、久しぶり」
迎えられた者は、怪しげな笑みを浮かべた。
(……今回もなかったか)
戦っている最中に、淵はそんなことを考えた。何せ淵が積極的に仕事に参加している理由は主に会うためだからだ。日中は主を調べている彼にとって本人が住んでいる時代に行けるのは絶好のチャンスだ。彼の主である陽成院は謎が多い。なので、真相をこの目で見るのが夢だった。
ケインを力強く振るって次々とくる影狼たちを茂みや木に飛ばしていく。いや、本人の感覚的には前にいて邪魔だからどかしているという感じだろう。先ほど挑発して少しは本気を出してくれたようだがまだ体力的には余裕がある。どこからそんな力が出ているのか、誰にも分からなかった。
「ほんと、つまんねー戦い方しかしてこないな。それで俺たちを閉じ込めようってんの?」
少々やりすぎだとは思うがこれも戦法。大体こういうことを言われたとき、怒りを鎮めるために単純な行動しかしない。だが、今回は少し違ったようだった。
影狼はアイコンタクトをすると後ろにいた数匹の影狼が左右にばらけて消えていく。
(へぇ、逃げるのか)
そう思ったつかの間、息をのんだ。戻ってきた影狼たちがくわえていたのは立派な刀を腰にさげ、高い身分の身なりをした男たちだ。これは多分、検非違使だ。検非違使は現代で言う警察のようなものであり、悪人を取り締まるのが仕事だ。なぜそんな者たちがここにいるのだろうか。
(多分、ここの近くに都があるんだろ。つまりここは八一六年から一三八六年の間……って今はそんな場合じゃない!)
これは影狼からの脅迫だ。下手な動きをしたら検非違使たちが噛まれて噂のように人が影狼になって襲ってくるかもしれない。やりすぎたと心の中で反省をしていた。だが、こちらにも考えはある。
まず、下準備として先ほど影狼たちを縛るのに使った蔦をケインにしっかりと結ぶ。規律よく並んだ影狼たちの右側にある木へ大急ぎで走ると影狼と検非違使たちにあるわずかな隙間にそれをスライディングさせて通す。その間に淵は木の幹をジャンプ台に左端の木へ飛び移ってケインを掴み、もとから持っていた蔦の先端と合わせて弧を描くように引っ張った。
するとどうだろう、検非違使たちが影狼の口に服の一部の布だけを残して離されていくではないか。人を一気に四、五人運んだことで淵は一気に体力を消耗した。
(さすがに疲れた……。でもここからが本番だ。あいつらを倒して一刻も早く帰ろう!)
徹夜明けと戦いの疲れで急激に眠気が襲ってくる。あらかじめ持ってきた眠気防止剤を唾で飲み込むと、再び木をジャンプ台に上へ跳ぶと降りながら体勢を整えた。着地先は右の木だ。とんっと軽い音を立ててから勢いよく蹴ると影狼たちのもとへ体が飛び出した。まるで、水泳での泳ぎ始めのような体制で向かってくる。声も出さずに倒された影狼たちを見送ると、急いで検非違使たちのもとへ向かってその幸せそうに寝ている顔を確認した。
(よかったぁ……)
と思ったが、いきなりカタカタと動き出したではないか。驚いて後ずさりをしていると、立ち上がり出した。そこから波のようにこちらへ顔を向けて目をカッと開き、刀を向けてきた。ケインを構えることもままならない淵は舌打ちを一つすると反対方向へ逃げ出した。
(影狼を全部倒せなくても人は絶対に守ると誓ったのに……あぁもう!)
なんとか目を盗んで木の上に隠れると、自分の力不足に絶望していた。足音が聞こえたので息をひそめる。下を見ると予想通り検非違使たちが周りを見回していた。きっと自分を探しているのだろう。このままにしていればバレないだろうと思った途端、想像を軽々と超えられた。
刀で――木の幹を切り始めたのだ。ドスッと鈍い音が、恐怖心を引き出す。周りの木はどんどんその体を細くしていき、ついには倒れたものもあった。急に足元が揺れたと思うとついに淵がいる木が切られているではないか。両手で口を押さえて息を殺すが、待っていても何もならないと判断してわざと大声を出した。
「っ……ははっ。……もうやめろ、俺はここにいる!倒したければついて来いよ!」
木の音が止んだ静かな空間に、淵の挑発が響いた。検非違使たちは刀を構えなおすとまた追いかけ始める。人並み外れた走力の彼らに劣らず、淵も地に着く足の面積を少なくすることで余計な音を立てずに森を駆け抜けていく。たまに後ろを振り向きながら走るが、検非違使たちは手が届くか届かないくらいの距離にいる。だが、決してペースを変えなかった。
足が動かなくなる寸前まで進むと大きく呼吸をしてぴたりと止まった。今まで何もなかったように検非違使たちのほうを向くと、少し遅れながら全員ほぼ同時に止まった。
(止まり方が不自然だな。何かに操られてるみたいな……)
だが、今はそのことを考えている場合ではない。一旦思考を停止させると検非違使たちのほうへ突っ走った。いきなりのことに頭が回らず、硬直していたのも気にせずに顔へ一撃を食らわせた。後ろでぱたりと倒れた途端にまた立ち上がる彼らへの違和感は確信へ変わる。逃げながら無数にある木を見ていると、夜空にも負けぬような黒い影が動いていた。
微かに、気味の悪い紫に染まった歯と宝石の如く輝いている赤い目が星のように浮き出て見える。とても誇張されている表現だとは自分でも思ったが、それくらいに今どんな気持ちであそこに座っているかがわかる。――面白がっている。
検非違使たちを忘れていたのでふと後ろを振り返ると、先ほどまで見ていたよりも大きく見えた。そのすばしっこく周りをまわる男性たちに怒りが込み上げてきた。体すれすれに通る刃を避けながら木の上にいた影狼を見ると、動物ながら人間らしい皮肉な笑い方をしていた。
「チッ……人を玩具みてぇにしやがって……」
思わず口に出てしまうほどだ。だが、それにしてもどうやったらあそこに近づけるだろうか。普通に言ったとしても検非違使たちに捕まるか不注意で噛まれるところしか想像できない。そういう思考の持ち主だ。考えていると、木の奥にも別の影が見えた。
(違う影狼⁈かなり面倒なことになったな……)
ひとまず近そうなそちらを倒そう。さっきよりも倍近くの速さで木の後ろに隠れた淵はそっと大きな影に近づいた。
(そぉっと……ん?待てよ。……なんか大きい気が――)
こちらに気づいたのか、ゆっくり立ち上がるその影を見て悲鳴を上げそうになる口を必死に抑える。
「え、う、馬ぁーっ⁈」
今の声で何羽の鳥が飛んだだろう。一頭の立派な毛並みを持った馬は凛々しい目を向けた。綺麗に手入れされていることから、検非違使の馬だろう。後ろにも数頭見え、彼らと同じくらいの数だ。
「……ちょっと、協力してくれるか?」
一番手前にいた馬の首にあった縄をほどくと、慎重に乗って頭を撫でた。
「お前は、大人しいんだな。よし、一緒にご主人を助けよう。結構動くぞ」
乗馬はやり方だけ知っている。主の話にはよく馬が出てくるからだ。怖いと思いながらも、賢かったのですぐに慣れた。まもなくこちらへ向かってきた検非違使たちに真剣な目をした。人の命がかかっているのだ、ちゃんとやらなければ被害が広がるだけ。心の中で何度も唱えながら彼らのほうへ突進した。
自分たちの馬だとも知らずに容赦なく刀を構えてくる。とにかく馬を傷つけないように細かく指示を出した。そろそろ慣れてきたと思い前を向いた途端、目の前に鋭く光る刃が――
馬の背中に左手のひらを当て、なるべく弱い力で逆立ちをすると肘を曲げて回避した。トスッとどこか爽やかな音を聞くとまた姿勢を整えて次々とくる検非違使たちに初めてとは思えないような繊細な操縦で翻弄させた。
(あ、戸惑ってんな)
ふと影狼を見ると瞳孔がわなわなと細かく震えているのがはっきりと見えた。思わず吹き出す。そしてそれと同時に良いことが頭に浮かんでくる。楽しさを押さえられないまま馬を動かし、跳んだり走り抜けたりする彼らを永遠に壊れない人形のように思った。
さて、その頃の影狼は焦っていた。まさか検非違使たちの馬を利用してくるとは思ってもいなかったからだ。自分で動かしているものの、なんて使えない人たちだろう。ため息をつくといきなり大きな揺れが影狼を襲った。この木以外は何もなさそうなので地震は違う。では、誰かが動かしている――。馬を見るとそこには、誰も乗っていなかった。
「バァーカ」
耳元に吐息とも思えるほど小さな声が響いたと思うと左頬に平たいゴムのような感触がして、あまりの強さに激烈な痛みがして木から落ちた。戸惑いながらも後ろを振り返ると慣れなそうに目を細め、笑っている淵がいた。まるでさっきまでの自分を見ているようだ。大胆に着地をした淵は影狼の頭に大きくケインを振り下ろした。
――少し前、淵は思いついた。馬を囮にすれば影狼を欺けるのではないか、と。大々的に馬を見せたらそっちに目が行くに違いない。そうなると馬の一部が見えただけでは自分が乗っているとは判別できないはずだ。そうと決まれば実行だ。頭を優しくなでてから手綱を強く引っ張ると、馬は全速力でひたすら前に進んだ。検非違使たちはいた場所を動こうともせずに飛ばされ、また立ち上がる。振り返ることのないまま進みながらも淵は頭の上に数多ある木を見つめていた。
(さて、どれがいいかな)
チャンスは一回だ。少し先にあるものを見つめていると、人一人は乗っても大丈夫そうな太さの枝が見えた。呼吸を整えるとバランスを崩さないように馬の上で立ち、負担をかけないよう弱い力で飛び移った。両手でぶら下がった状態になると勢いをつけてなるべく音を出さないように足を乗せた。
ここから影狼までは十五メートルほどだ。右手を伸ばし、すぐ近くにあった木を掴んで雲梯のように軽々と近づいていく。最後の――影狼がいる木では少し届かずに揺れてしまったが、あちらは地震か何かだと思ってくれたようだ。
「――あれ、帰ってきてくれたの⁈」
灰となった影狼を見送ると見覚えのある大きな影が現れた。まさか、倒した後に自分のもとへ帰ってきてくれるとは。
馬を元の場所へ帰すと、仲間たちはもう眠っている。よく見ると白い汗が体をつたっているのが見えた。相当頑張ったことがわかる。縄を再びくくると、影狼のいた木のあたりまで戻った。
「さて、最後はアンタらだ」
操るものもいなくなり、ゾンビのように周りを徘徊している検非違使たちを見てケインを構える。一直線にすぐ近くの検非違使のもとへ走ってケインを首元に当てると、「ヴッ」とかすれたような声を上げて倒れた。それに気づいた他の者たちは素早く遠くへ逃げていく。体力は半分以下だが、淵は地を勢いよく蹴って飛び出した。
逃げた検非違使たちは四人、全員が同じ方向に行ったはずだ。服の裾が見えたと思うと目の前に立ちはだかる木を避け、だんだんと近づいていく。もう走る力がなくなったのだろうか。検非違使はちょうど後ろにあった大木に身を隠してこちらの様子をうかがった。淵もそこで止まり、時計回りに大木に沿って歩くが、当然検非違使も同じようにして距離を詰めないようにする。
(これを続けるわけにはいかない。こうなったら――)
上を向き、大木の枝が分岐している方を見る。足に素早く力をためて枝の集まっているところにうまく足をかけると検非違使めがけて飛び降りた。両肩に強い力をかけ、検非違使の頭を木に衝突させないようにしながらクッションがわりとして着地した。
再び探そうとして前を見ると、ひらりと高貴な布が二つ重なって見えた。同じ方向に行った、暗闇によく目立つ白色を忘れぬうちに追いかけると開けたところに出た。周辺をぐるりと見回すとちょうど自分の左右に立っている。挟み撃ちをしようとしているのか。単純だが、下手にどちらかに集中するともう一人がそのその隙を見て攻撃してくるに決まっている。淵はあちらのタイミングをうかがった。だが、全然動こうとしない。ふと、瞬きをした途端また目を開くと左にいた検非違使が膝から崩れ落ちた。どうやら気絶しているようだ。
(何が起こってるんだ⁈)
混乱しているのはあちらも同じだった。たがいに目が合うと焦った様子の検非違使はその大きな図体で爪をたて、向かってきた。動きは速いが正面からなんてすぐに対処できる。淵は構えていたケインを軽く左から右へ振って検非違使の顔に当てた。
(さて、あと一人……)
淵の後ろに、赤い目を光らせた者が襲い掛かる――。
「失礼しまーす」
横から声が聞こえてきた。木の大群から出てきた少年は右ひざを曲げて検非違使の頭に蹴りを入れたさっきよりも困惑が隠せない淵に笑顔で言った。
「淵さん、ここにいましたか!」
きらびやかなメンズスカートが特徴的な、そう、しのぶだった。
「もしかしてさっきのも……」
「はい、淵さん困ってそうだったのでやってしまいましたけど……お邪魔でしたか?」
「いや、すごい助かった。ありがとう」
先ほどの左にいた検非違使を倒したのもしのぶと判明した。安心と感謝、そして勝手に行ってしまったことへの罪悪感が一気に来る。顎に人差し指を置いて考えていたしのぶが「あっ」と思い出したように言った。
「そういえば、淵さんを探すときに姿見の近くまで行ったんですけど……鍵がかかっていました」
「いきなり来るのか……」
「みなさんの話によると強い影狼や影人を相手にしないと鍵が得られないそうです」
「ちょっと待って、かげびとって……何?」
当たり前のように言われたその言葉に理解が追い付かなくなった。
「あ、これはさっき淵さんが戦ってた影狼化した人たちのことです。名前がないのでつけてあげようかなって」
(軽すぎる……)
自分の部屋を一歩出ると世界が広く感じる。たったの九日いなかっただけでそれを感じた。




