第三十句
「私は静かに暮らしたい……」
二人がやってきたのは、先ほど此のが残党を倒した森を東南へさらに奥だった。今まで目の前をふさいでいた木がだんだんなくなっていったと思うと新しそうな茅葺の小屋が見えた。大きさ的に、一人か二人くらい住んでいるだろう。
「この辺りにも人が住んでるんだな」
「え、そうなの?」
「いやお前、完全に見えてないわけじゃないだろ。ほら、あそこに小屋があるだろ」
「暗くてわかんないや」
少しの違和感を感じながらも、今は影狼探しが肝心なのでそれに集中することにした。小屋に近づき、家の中を少し覗いた。もしかしたら家主が影狼に襲われているかもしれない。だが、特に変わったところはなさそうだ。ふと上を見上げると、顔に水のようなものが落ちてきた。
(雨か?)
気にせず手で拭うと、はっとして自分の手を見つめた。その雨は生温く、赤色だったのだ。考えられることはただ一つ。もう一度上を見上げると、月の逆光を浴びた黒い影があった。
(まさか……)
屋根へ静かに飛び乗ると、口の周りを真っ赤に染めた影狼がいたのだ。少し不安があったのか、辰巳は武器をすぐには構えない。影狼は時間や場所を配慮せず襲ってきた。敵がすぐ前にいるというのに、辰巳は引き金を引かない。それには、事情があった。
(俺らを見た人たちは戦いの後、自動的にその記憶だけが消される。万が一覚えていたら歴史が変わるからな。でもまだ技術が進んでいないから完全に消すことはできない。戦ってるところなんて見られた終わりだ)
『なるべく人に見られないように戦う』それは決まりの一つだった。だから今までも、人が多い場所を避けて戦うことが多かったのだ。とにかく、この小屋の上で戦うと家主が起きて見られてしまう。辰巳はなるべく人がいない場所に影狼を誘導したかった。
(周りが森でよかった。移動距離は多くない)
一回屋根の上から降りた。影狼の反応をうかがいたかったのだ。だがずいぶん落ち着いているではないか。戸惑って足を止めると、その理由はすぐにわかった。ふと腕をつかまれたと思うと、目の前に恐ろしい形相の男性がいた。左右を見ても後ろを見ても人がおり、誰もが牙をこちらにむき出している。すぐにライフルを構えて引き金を引こうとするが、はっとして銃口を下に向けた。
(こいつら……俺に武器を使わせるために襲ってきたのか!)
武器はこれ以外もっていない。必死でライフルを押さえるが、影狼が一鳴きすると無数の手がライフルを掴んだ。その力の、なんと強いことか。
「噛んだ人の操作⁉」
どうやら例の影狼は噛んだ相手の操作もできるようだ。こうなると、先に影狼を倒した方が早い。手を振り払いながら良い考えが浮かんだ。
一回呼吸を整えてさっきよりも強い力でライフルを振って今まで掴んでいた人の手をどかした。間をつくらず屋根にいる影狼のもとへ全力疾走をすると、やはり影狼はまた合図を送って人々を辰巳の前へ集めた。団子のように集まった彼らへ鋭い視線を向け、次の瞬間目の前で大きく飛んだ。距離は全然届いていないが、それも作戦だ。少しすまなそうな顔をして着地をした先は、屈強な男性の肩だった。男性はたちまち倒れてそのまま気絶してしまったようだ。一方、男性を踏み台とした辰巳は屋根に近づいてその驚いた表情の影狼と目を合わせていた。
「やり方が荒くて悪かったな」
頭の後ろに両手で持っているライフルは銃口が後ろを向いている。もうすぐ着地しそうなところで振り下ろすと、影狼はゆっくりと屋根から落ちていった。それと同時に地へ着地して残りの人々のこめかみに強く手を当てると、たちまち気絶した。戦いのときはよく見えていなかったが、五人もいたらしい。肩に担ぎ、木の下に横にさせてポイズンリムーバーで毒を抜いた。使い方はわかっていたが自分の不器用さが出てしまったようだ。怪我無く終わらせられたことに彼はどれほど安堵したことか。
屋根の下へ戻るとまだ影狼が気絶している。強く打ちすぎただろうか、おろおろしながらも首の後ろを掴んで森の奥へ入っていった。
(本当にだれもいないな……)
まだ暗い森の中、寒くなっているということもあって虫の声も聞こえない。影狼が灰となって立ち上っているのを見ると、急に背中がぞくりとした。
「此の……此のを置いてきてしまった……」
周りを見渡しても誰もいない。今までにないくらいの全速力で森を抜け、今まで行った道をたどる。小屋の前にも、その前の森にも姿はない。冷や汗が止まらなくなってきた。
「此のッ!いたら返事しろ!」
必死に叫んだ。来た道を戻っているといきなり大声が聞こえた。辰巳にも負けないような声。それを聞くと一瞬ぽかんとした顔になったが、数秒後――
辰巳の姿はなかった。




