第二十五句
「なぜか好かれてしまう……」
「フフフ……アハハハハ!」
天つは眼鏡を外し、今まで首にかけていたネックレスのようなものを上にあげて前髪を留めた。ヘアバンドだったのだ。
「あー、俺は何をすればいい?」
「君はあの影狼を追って。僕はこの女性をどうにかするから」
ちはやの話を聞きながら乱暴にサプレッサーを外して後ろを向いた。
「あんまり暴れすぎないでね。僕、天つさんに怒りたくないから」
「……わかってる」
小声で答えると、影狼が逃げた茂みのほうへ走り去っていった。
天つに必要なことを伝えたちはやは再び女性のほうを向くと、いきなり大太刀に強い力が加わった。今まで抵抗せずにいたのは、いつか逃げるときの体力を温存するためだったのだ。ひとまず女性と適度な距離を取り、奥にいた男性に話しかけた。
「今のうちに逃げて」
「で、でも……」
「大丈夫、傷つけないから。それに……秘密は誰かに見られたら意味がなくなってしまうよ」
二人が誰にも知られずに付き合っていることは承知済みだった。これは全て天つの考察だ。男性は戸惑いながらも言葉の意味を理解したようで、おぼつかない足取りで塀の奥へと走っていった。男性の影が見えなくなると、女性はゆらゆらとその乱れた髪を揺らしながらこちらへ向かってきた。それも、影狼とあまり変わらない癖を持った四足歩行だ。寸前まで来て飛びついたが、やはり涼しい顔をしながら大太刀で止められた。髪の向こうには、綺麗な顔が見える。
「ダメだよ。大切な人を襲うなんて」
そのまま片方の手で女性の両手をつかみ、大太刀の刃を自分に向けたものをもう片方の手でつかんで膝に食い込ませた。すると体勢が保てなくなり、その場で転がった。
「さっきも言ったけど、君を怪我させる気はないよ。あ、でも――」
先ほどと同じ妖艶な笑みが出てきた。
「ちょっと痛いかもね」
言葉を発したせいか力が緩くなって女性は両手の拘束をするりと解いた。素早く体一個分ほど転がると、起き上がってさらに奥の方へ逃げ始めた。すかさずちはやも反応して追いかける。塀の奥は思ったより広く、どれほど走っても先が見えなかった。ゆっくりと距離を詰めていくが、あともうちょっとの所で逃げられてしまう。その繰り返しだった。
(鬼ごっこみたい……)
女性は一瞬こちらを振り返るとさっきの倍の速さで前から消えた。さすがに疲れが出てきたが、ここで諦めるわけにはいかない。負けじと追うと塀が見えた。ようやく、端についたのだ。こちらをにらみながら塀にべたっと張り付いた女性にゆっくり近づく。今まで警戒をしていた女性はふと上を見上げた。塀は、女性の身長を優に超えていたが、登れないことはない。
「まさか……」
女性は軽々と塀を飛び越えたのだ。先には森がある。逃がしたら終わりだ。全速力で女性を追いかけながら、ちはやはあるものを見つけた。井戸だ。滑車にかかっている縄を大太刀で切ると、先端についている桶の水をこぼさないように女性と同じ道をたどった。木に隠れているのが見える。多分、ちはやの行動を観察するためだろう。最初はゆっくり歩きながら近づいたが、距離を縮めるにつれて加速していく。女性がそれに気づいた瞬間、桶をそこへ向かって投げた。水が女性を襲う。
『ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川』
和歌を唱えると、水がパキパキと音をたてはじめた。呼吸を整えてからそこへ行くと女性が氷の膜に覆われているではないか。
ちはやの句能力:物質を気体、液体、固体に変化させる
女性の顔色が悪くなっているのを見ると、氷に触れた。シューッと音を立てながら水は水蒸気となり天に消えていく。気絶しているようだが、すぐに目が覚めるだろう。女性を抱えて塀の内側に行き、近くにあった大きな建物の廊下へそっと横にした。
(さて、あの人は大丈夫かな)
来た時よりも少し沈んでいる三日月を見ながら、ちはやはため息をついた。




