第二百三十九句
「あぁ、今日も咲いていますよ」
少しの間の後に完全に消えていった井戸を見て、二人は安堵した。だが、まだ油断はできない。急いで残されていた黒マントを引っ張って姿見まで行こうとするが、いきなり八重は体勢を崩して穴にでも落ちたかのように消えた。
「消えた⁉」
まだ断定はできない。黒マントをおぶったまま八重がいたところを覗き込もうとすると、そこから井戸が現れた。石の壁を掴む小さな手を見つけ、両手でつかむ。八重は井戸へ落ちそうになっているところを必死に耐えていた。
「今助けるからな!」
半分諦めたような表情だったが、八重は静かに笑って答えた。それにしても重い。いつもなら軽々と持ち上げられるのになぜだろうか。もっとよく下を見ると、分かりにくいが井戸の中にある暗闇にひっそりと隠れながら八重の足首を掴んでいる黒マントがいた。
無理に引っ張ると、それと対応して黒マントの力も強くなって引き上げる前に八重が限界を迎えてしまう。どうにかして負担を減らしながら助けたい。ふと、八重がもう一方の手で握っているものを見つけた。銃だ。小夜はあまり扱ったことはないが、今までに何回も使っているところを見てきた。一か八かで銃を貸してもらい、黒マントにかするような位置を狙う。
想像以上に使うのが難しい。小夜でさえも、小刻みに手が震えている。意を決して引き金を力強く引くと、定まらぬ弾道で飛び出た弾からの大きな反動が伝わってきた。倒れそうになったところを何とか耐えてまた井戸を覗き込む。やけに静かだ。
(まさか、変なところに当ててしまっただろうか)
そんな心配を下のが馬鹿らしくなった。顔を下に向けた瞬間、黒マントは八重の反対側の壁に掴まりながら自らの銃をこちらへ向けて撃ってきたのだ。反射神経の良さを生かして避けたものの、これで黒マントが一層八重に近づいてしまった。まだ弾は残っている。少し離れたところから見える、壁を掴む黒マントの手。あそこにかすらせれば少しでも反応を遅らせられるだろうか。
だが、希望は少ない。井戸は完全に黒マントのテリトリーだ。こちらが圧倒的に不利である。それに、小夜には銃を扱う自信がない。顔の前で構えるといよいよ呼吸が荒くなってきた。
(ごめんな、何もできなくて)
丁寧に、かつ素早く引き金を引いた。狙うは黒マントの指だ。だが、弾を放った瞬間、小夜は銃を懐にしまいながら走り出した。まっすぐと黒マントに向かって進んだ弾は惜しくも弾道がずれており、かすることもなかった。確信の笑みを浮かべながら後ろを向いたが、そこに苦しそうにして壁に掴まっている八重の姿はない。
小夜と共に縁へ乗っていた八重は、黒マントに負けない笑みでフードで見えない顔をじっと見つめていた。小夜も同じだ。
「危なかったよ」
「はい、本当に」
黒マントは何をしたかったのか、瞬時に理解した。最初から小夜の目的は、弾を当てることではなく黒マントを気を引くことだったのだ。引き金を引き、弾が通っていく瞬間に走って八重を確保しても、発砲音と弾の流れに夢中になっていて気付くはずがない。
一泡吹かせられたことに気づいて雰囲気は一変、井戸から出たと思うと、銃を構えてまっすぐに小夜のことを狙った。短刀を顔の前に構え、はじく準備をする。引き金に手が置かれた瞬間だ。いきなり体の向きを変え、八重の方に銃口が向く。
「危ない――」
「――走って」
その前に行こうとするが、八重は柔らかい笑顔で小夜の背中を押した。自然と動きが止まり、少し遠回りをしながらも黒マントのもとへ駆けていった。手玉に取るように弾を避け、八重も銃を構えると互いに銃撃戦が始まった。
「やだなぁ、僕もそんな考えない人じゃないよ」
両者は睨み合いながらも華麗に弾をかわし続ける。少しだけ、こちらが押されている気もする。だが、黒マントの後ろには気づかないほどひっそりと忍んでいる影があった。




