第二百三十句
「本当に、ありがとう」
小川を渡った八重の目の前には、すっかり静かになってしまった草原が広がっていた。いよいよ月明かりだけでは地面は見えなくなってきたので、バッグの中にあった玩具の懐中電灯を点けて地面を照らした。今のところは何もけがはしていない。今思えば、二対一でかすり傷程度しか残らなかったことは奇跡と言っても過言ではない。
そう思いながらしばらく歩いていると、自分のものではない足音が聞こえた。ただ草原を踏んでいる音ではなく、そのものの頭上にあるものに当たった音――。葉が頭上に来る場所なんて一つしかない。ちょうど後ろ側にあった木へ顔を上げて見つめると、幹には不自然な形の影がかかっていた。幹が消えている、あるいはとろけているように見えるそれは、よく目をこらえると垂れさがった布のようだった。
もうこちらには気づいていることを前提に素早く銃を出して垂れた影を何発か撃つ。マガジンはすぐに切れてしまったが、綺麗に命中させた。追撃を試みたものの、空になったマガジンを取り出した瞬間には葉のこすれ合う音と共に消え去ってしまった。だが、後の動きは大体予測できる。
急いで木の中に隠れ、装填の続きをしているところでだんだんと近づいてくる開く前の花火に似た音を聞きつけたところで完全に弾を取り換え、顔の前で一直線に構えた。全て計算されたようなタイミングで空からは、先ほど木から高く舞い上がった黒マントが降ってきた。よく見ればあちらも銃を構えている。
その体が地面に着くまで連射し、一発でも良いところに当たっていることを願う。あちらも同じように撃ってきたが、全て外れて上の方へ行っていた。それ以外は避けるばかりで、八重は飽きさえもした。
(どうしたんだろう。壊れちゃったのかな)
そう思った時だ、木の幹に近い方の耳へ、聞きなれない音が飛び込んできた。小石同士をこすり合わせうような鈍く、聞いていてあまり心地よくはない。それはだんだんと大きくなっていき、ようやく気付いた。八重は先ほどまで、黒マントの裾へ重点的に攻撃をしていた。それは後ろにある枝を撃っているのと同じことだ。銃が壊れているのではない。黒マントは最初から木の幹を狙っていたのだ。
避けようとしても、最後の追い打ちとしてフルオート式を存分に生かしてきた。何とか頭に当たるのは避けたが、足を滑らせてそのまま転んでしまった。幹は八重の足へ落ちる――。水辺だったからか地面は固まっており、砂ぼこりが舞うなんてことはなかったが、八重の右足首には激痛が走った。一瞬にして足が熱くなっている。しかも簡単には脱出できない重さだ。
靴を脱ごうとするが、手を使わなければできない。だが、後ろを向いたら間違いなく黒マントからの攻撃が来るだろう。どうしようもできずにそのまま黒マントを睨んでいた。引き金が引かれる瞬間、八重は何かを思い出したような顔で幹に手を伸ばした。
『いにしへの 奈良の都の 八重桜』
八重の額を貫くはずだった弾は、いつの間にか地面にめり込んでいた。驚いた黒マントが前を向くと右足首が赤く腫れていながらも立っている八重の姿があった。よく見れば、その後ろにある木はしおれて禍々しい見た目になっている。
次の瞬間にその少年は前からいなくなっていたかと思えば後ろから耳元を通る発砲音がした。フードに穴が開く。後ろに向く瞬間、視界の外に行くよう背中にくっつきながら移動して裾を掴んだ。軽く引っ張りながら大まかな足の位置を特定し、強く蹴った。体勢を崩すことはなかったが、反応を遅らせることができた。
「ふー、危なかったぁ」
八重の句能力:植物の養分を体力へ変換
切り倒された木にはまだ養分が残っている。八重が触れたことによって体力が復活し、素早く動くことができたのだ。木の重さを少しでも軽減出来て一石二鳥だ。一度距離を離すと、腫れた足をゆっくりと押さえてから前を向いた。




