第二百十四句
「滑稽だ」
(もし僕が梶の言葉を受け入れていたら、結果はもっと違ったんだ)
今更引きずるのは遅いと分かっている。だが、ついそう考えてしまうのだ。今すぐにでも謝りたい。そして二人で黒マントたちへ立ち向かいたい。ささやかだが縋るように願っていた。黒マントの体力は減ってきているため、このまま姿見の所まで連れていきたいところだが普通にやれば何をされるかわからない。現に、あくると滝が撃たれて傷を負っているところを見てしまったのだ。
滝もそうだが、まさか好都合な能力を持っているあくるでさえやられるとは思っておらず身の毛がよだった。銃での損傷は何としてでも防ぎたい。ひとまず姿見の周りを見てこようとした。自然と声が出る。
「ねぇ梶、僕あっち見てくるから――って……」
(そっか、いないんだった)
困ったことに、これでは姿見に行くことができない。ただでさえ図体の大きな男を運ばなければならないのに、この距離だと普通に歩いても五分強はかかる。大きくため息をつくと、自分のスカーフをちぎって手足と口に巻いた。手は指に及ぶまで重点的に縛る。指を鳴らされたら井戸へ逃げられてしまうからだ。目が開いていないことを確認すると、静かに、だが木々を揺らせるくらいの勢いで走り去り、柵を使いながら急カーブをしてあっという間に姿見の前へたどり着いた。
深呼吸をしていきなり止まったことから起こっためまいを押さえてから姿見の周りを確認した。特に怪しいところはなさそうだ。そうとわかれば先ほどと同じ。死に物狂いで走って戻る。だいぶ近いところにいるのでなるべく物音は出したくないのだが、荒い呼吸を治すのにそれは難しかった。
必死に口を押さえて何とか乗り切ると、マントの裾を引っ張って黒マントを引きずり出した。これがどうにも重い。仰向けになっているので体の形が大まかにわかるが、割と筋肉質だ。この体でどうやったら先ほどの素早さが出せるのか、敵ではなかったら聞きたいところだ。辛くはあったが、森は何とか抜け出せそうだ。出口に来た時には一気に表情が明るくなったが、そんないたみの顔を見てさらに笑っていた者たちがいた。
姿見の部屋から出て、先ほどまでゆっくりと歩いていたはずの廊下を戻る。先ほどのことが夢だったかのように梶は落ち着いていた。不思議と姿勢がよくなり、視界が明るく見える。階段を上がってリビングへ行くまでは誰も会わなかったが、自室に戻った瞬間に一気に力が抜けた。布団にダイブし、天井を眺める。そこには当然、何もない。
(なんか、不思議だな。あんなに傷つくような言葉を言われたのに悲しくない)
扉からのノック音に気づき、短く返事をすると入ってきたのは葎だった。リビングに入っていく姿を台所から見ていたらしい。正面で丁寧に正座をしながら、開口一番にこう言った。
「いたみ、納得してくれなかったか」
「違う。俺が空気読めないだけだよ」
ためらうことなく顔を合わせることもできる。事情を説明すると、姿見の部屋の前でもあったようにゆっくりと聞いてくれた。
「――でも全然悲しくないんだ。なんか妙に安心できるっていうか、納得するっていうか。自分で分かってたのかも。俺、自分のこと嫌いなんだ」
「なるほど」
「だから多分、いたみもそれと同じくらい俺を嫌ってたんだよ」
「どうかなぁ」
それはいつも通りな気がしたが、いつもの葎とは違う対応の仕方だ。気になったので思い切って聞いてみることにする。
「ねぇ葎?なんでさっきからいつもと違う反応ばっかり……」
「うーん、梶が自分のことをよくわかってないからだよ」
まったく訳が分からなかった。ふと梶が懐から取り出したのは、手鏡だ。丁寧に磨かれていて、夕暮れが反射している。鏡を手に取ると、葎はそれを持つ梶の手を握って顔が見える位置にまで移動させた。自分の顔を見て、梶はさぞかし驚いただろう。
「え――」
見慣れている顔には大粒の涙が浮かんでいた。フェイスベールにもかかっている。動揺しているところへ葎は真剣な目を合わせた。
「驚いた?この部屋、鏡ないからさ」
「なんで、俺……」
「……君が自分のことを嫌っているんだったら、いたみの言葉に納得してるんだったら、その涙は絶対に出ないよ。でも出てるってことは、君は自分のことを大切にできているんだね」
葎の言葉をかみしめると、また涙が出てきた。いたみの言葉に深く傷ついたからだ。しばらく布団にうずくまって涙を押さえると、携帯を取り出して電話をした。博士に、仕事にはいけないと伝えなくてはならないのだ。
「――あの、本当にすいません」
『そっか、大変だったね。わかったよ。でも……』
事情を聞いて納得してくれたことへそっと胸をなでおろす。だが、その後に続く言葉が気になって黙ったままでいた。
『今ね、いたみ君の周りに相手の気配が多く察知されてるんだ』
「――え?」




