第二百十二句
「この者を捕らえよ!」
梶はいつもより視界が狭く感じた。廊下はまだ長いが、他の誰の姿もないことに安心感を覚える。黒と白のストライプの壁紙、二つに一つステンドグラスが散りばめられている窓とメッキの剝がれかかっている金の窓枠、踏むたびに足が少しだけ沈む赤黒いカーペット。レトロチックな雰囲気の廊下には真っ昼間の光が差し込んでいるはずなのになぜか暗い。
壁に片手を着きながら姿見の部屋まで来ると、ドアノブを握ったところで手が止まってしまった。せっかく決めたはずの決断にまた疑問を抱いてしまったからだ。
(迷惑だったら、自分勝手なことをしてしまったら、どうしよう)
前髪に隠れる目はだんだん足元を見るようになり、いつしか扉の前でしゃがんでうずくまってしまった。
先ほどの空気とは一変した森を見ても、いたみは何も考えていないような顔で足を進めた。しばらく歩いたところで立ち止まるといきなり険しい表情になり、ハンマーを持ちながら一気に加速した。鮮明に聞こえる虫の鳴き声があろうと、彼の目はごまかせない。一瞬だけ見えた、森にあってはならないもの。空の明るさがなくても光って見える影狼の赤い目があったのだ。木の上で見つけたそれから位置をごまかすために幹の真下へ駆け込む。
少し間を置いた後に高く跳びあがると空中でハンマーを取り出し、背中に大きく腕を上げて構えてから前に振り下ろすときの反動で急降下した。位置を変えようったって意味はない。狙っているのは影狼ではなく、木なのだから。鈍い音と共に何本かの枝が折れ、地面に落ちた。衝撃ですっかり葉が落ち、どこにいようとも姿があらわになる状態になった。ハンマーをしまい、先ほどよりも低く跳ぶと両手を右側で構えて再度柄を握ると力強く左へ振った。
体の側面に当たってくの字に折れ曲がり、そのまま森の奥へ吹っ飛ばされていく。何事もなかったように綺麗に着地すると武器はそのままに歩き始めた。
(人に言った以上、手を抜いてちゃいられない)
梶に「大丈夫」と言った。ここでただの怪我ごときで弱音を吐いてはいけない。胸に手を当て、しっかりとその言葉を叩き込むと体を半回転させて奥へ進んでいった。橋で見ていたよりも森は小さかった。すぐに海へとつながる崖にまでたどり着くと木は途絶え、代わりに果てしなく続く海と空にぽっかりと浮かぶ月が見える。沖にある大岩へ波が数回かかった。どれも大きく、岩を飲み込みそうなくらいに大きな波なのに岩は全く動じずにいる。
その様子を見つめているいたみは表情が暗くなった気がした。すっかりその情景に心を奪われた瞬間だった。何か――後ろにいる。気づかないふりをして接近されるのを待っていようとその場で立っていたが、尋常ではない速さで気配が迫ってきた。動くことすらままならない。大きく息を吸い込み、思い切ってハンマーを腰のひねりで振るったがあっけなく避けられてしまった。かと思えば額には銃口がある。
大きく揺らいだ影の正体は黒マントだったのだ。見上げるほどに大きな図体と威圧感で押しつぶされてしまいそうになりながらもひとまず銃口を持って当たらないところにまで位置をずらす。今の位置ではまさしく背水の陣だ。どうにかして崖から離れようとしたが、図体からわかる力強さがそれを阻んだ。
引き金に手がかかる。ぎゅっと目をつぶりながら体を引いた瞬間だ。
「待て」
そう聞こえた。同時に強い風が吹いたので、幻聴かもしれない。だが確かに、聞き覚えのある透き通った声が耳に届いたのだ。上を向くと黒マントの首元には先が少しだけ湾曲している槍の穂があった。黒マントの注目はすかさずそちらへ行くが、現れた口を覆った青年――梶は落ち着いた様子で槍を構えた。
決して圧に屈さず、軽い動きで大きな肩へ掴まるとふわっと宙に浮いて背中へ膝蹴りを喰らわせた。体勢が少し崩れたところでさらに槍で追い打ちをかける。風へのなびき方で体の形を大まかにつかみ、ない部分へ思いっきり槍を突き刺した。布を貫通した柄を黒マントの頭越しに両手でつかむと、足を体に付けて勢いを増しながら体の方向に引っ張った。首に突っかかった柄が痛くないわけがない。
声を出さずにもがいていたのをしばらく見てから槍を自分の所へ戻し、着地する。足が地面につく瞬間、思いっきり脛を蹴って前へ倒れこませた。
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