第二百十一句
「違う、私は悪くない!」
橋を渡った先にはあまり深くはない森が広がっている。森といっても、木が数十本程度並んでいるだけで少し進んだらまた別の風景が広がっているようだった。奥も調べたいところだが、森などの身をひそめやすいところにいる可能性の方が高いと考えたいたみはその場で待機した。
(そういえば、さっきの影人たちを操ってた影狼は全然見えなかったのに動きが精密だったなぁ。きっと近くにいる)
先ほど影人と戦っていた時も、影狼の姿など見えなかった。うまく目立たない場所を見つけられたのだろう。だが、それにしても気配が感じられない。一度気のせいかと思って森の中に入ったが、その瞬間に風の通っていないはずの木々は揺らいだ。まるで何かの罠にはまってしまったような心地になりながらも音をたどって戦闘態勢をつくる。葉の間から何かが飛び出してきた。だが、それは正面とは限らず全方向からだった。
(……今何時だ?)
梶はそんなことを思って携帯の電源を入れた。もうかれこれ小一時間は布団の上で天井を眺めていたことに気づくと、急いで立ち上がった。上半身を起こした瞬間から立ち眩みがする。額に手を当てて見たがどうやら熱ではなさそうだったので安心した。
部屋を出ようにもいたみが帰ってきていたらどう説明すればよいかわからない。かといって、仕事に行かないのもどうだろう。特に体調が悪くないことを確認すると、梶はドアノブを強く握って扉を引いた。
影狼たちの着地前にその輪から逃げ出すことはできなかった。体を震わせてながらこちらを警戒している影狼を見て、いたみはすぐに違和感を覚える。
(なんだか、いつもより影狼が小さい気がする)
影狼が通常より一回りほど小さい気がしたのだ。森にうまく隠れられていたのは木のおかげではなく、体の大きさにあったと考えるとなんとなく腑に落ちる。容赦なくやってよいということを知ってハンマーを取り出すと、後ろ側の気配が濃くなってきた。ハンマーは背中に付けたままで体を九十度回転させ、右足で蹴りを入れる。左前へ弧を描くように吹っ飛ばされていったのを見送り、次の左右から来るものたちを確認した。
柄は真ん中あたりを持ってから調節し、殴打部分がちょうど二匹の延長線上に来る位置へ持っていくと思い切り手を後ろに回して上半身を回転させた勢いで大きく振った。腕に反動がかかるほどの強さだったため二匹とも一撃で頭から血が出ていた。
柄を長く持ち替えて背後へ感覚を集中させる。気配が背中へこびりつくギリギリまで止まり、来た瞬間に勢いよく前に倒れ込んだ。今まで目の前にいたはずのいたみが急に消えたことによって影狼たちの対応は追いつかず、そのまま地面に手をつきながら着地した。
あちらが起き上がらないうちに腕立て伏せの姿勢で肘を曲げ、跳ね上がるとすぐにハンマーを持って上から覆いかぶさるように振り下ろす。だが、腕が肩よりも下に着たタイミングで所々に散らばったので、一番間隔の近いものから追いかけていった。ハンマーを持ちながらだと体への負担が大きい。とらえてからの準備時間はとられるが、ハンマーは一度しまった。
脇腹の刺し傷に向かい風が当たるたびに刺すような痛みが来る。息が詰まりそうになりながら小さな森の中を果てしなく追いかけた。今のいたみに限界など感じられない。一直線に走っていく影狼に対し、木々の上を伝りながら静かに追いかける方法は最適だったのだろう。追いつくどころか抜かして頭上へ来た時に合わせて着地した。
影狼が頭上を向いたときに見えたのは、背中にハンマーを構えて降りてくるいたみの姿――。避けることもできずに頭を強打され、地面に倒れこんだ。とどめを刺すかなんて判断することもなく元の場所へ戻ろうと来た道を逆走した。
だがどうだろう。ついたころには、元からいなかったかのように静かになっていた。いたみは特に驚くことはなかったが、大きくため息をついてから右を向いて歩き始めた。




