第二百八句
「見たかったなぁ」
ものやといたみの会話は止まることなく進んでいる。いたみが行った旅行先の話、まだきと喧嘩した話、その内容はしっかりと入ってきたが、言葉たちは耳から耳へ通り抜けるような感触がして、声が遠くなっていって聞こえなくなっていった。自然と目線が下へ行く。次に声を発したのはいたみに肩を揺らされて意識を戻したときだった。
「――っは!」
「梶?大丈夫?」
「もーちょっと、梶君話聞いてよぉ」
すぐに会話は戻ろうとせず、ものやは梶へ話を振った。しばらく考えて出てきた話は、先ほど不良たちに絡まれたことだった。言葉は衝動的に出るわけではない。慎重に言葉選びをして話すと二人はゆっくり聞き入れてくれた。
話が終わったところで前を向くと、いたみは両手を後ろに回して顔を覗き込むような姿勢を取った。また、そして、いつの間にか目を割らせていなかったことに気づいて少しだけ目を細めた。
「梶、また無理したんでしょ?僕を呼んでくれればいつでも来たのに」
「えっと、その時はしがらみさんと友さんが助けてくれて……」
「でも、ちゃんと話せたの?」
言葉に詰まってしまった。思い返してみれば、もう少し気が利くことを言えばよかったのかもしれない。自分で思っていたことをもっと口にしていれば、何か変わっていたかもしれない。不良に絡まれた理由を言ってしまった。今度はあの二人に関与してくるかもしれない。そもそもあそこで人を助けたのが悪かったのだろうか。いじめられていたわけではないのかもしれない。
『あの……』
『……っ』
助けた人が何かを言おうとしている前に立ち去ってしまった。聞いておけばよかったのかもしれない――。いろいろな考えが頭を巡っている。
(どうしよう、全部、全部、俺のせいだ)
その場で頭を抱えてしゃがみ込むと、いたみもしゃがんで背中にそっと手を当てた。
「梶、無理はしなくていいから。部屋戻ったら?」
言われるがままに踊り場を去り、自分の部屋に重い足取りで入っていく。最初と変わらぬ満面の笑みで扉を閉めたところを見送ると、一気に疲れが体に出てきた。上半身を思いっきり布団に沈めると、何もない天井を見つめた。
(俺って、そんなに思い詰めてるのかな)
梶を部屋へ連れて行ったいたみは一安心すると自分の部屋へ戻った。休日に遠出したところの土産が大量に重なっているのはいつものことだ。と言っても、ただ遊びに行ったのではなく百人一首の調査のために行ったのだが。でも苦ではなかった。
布団の横にある富士山の写真を眺めていると、いきなりポケットからの強い振動を感じた。携帯の画面が透けて光っている。誤作動をしないように慎重に取り出すと、『博士』と書かれた下にある通話ボタンを押して耳に軽く当てた。そこには、いつもの声だ。
『もしもし、いたみ君?』
「博士だ。どうしたんですか?」
画面越しに聞こえるキーボードの音の速さからして仕事だろう。一瞬で立てた予測は見事に当たった。適当に相槌を打つと話は続く。
『今回は梶君とでいいかい?』
「……はい!わかりました」
返事をするとき、今までまっすぐだった目に浮かんでいたのは迷いの感情だった。だが、博士が知る由もない。いつも通りの元気な返事を聞くと、電話を切った。いたみが準備を済ませてまず向かったのは梶の部屋だ。
しばらく天井を見つめていた梶は強いノック音を聞きつけて上半身を跳ね上がらせた。つい眠ってしまいそうだったので驚きが倍になる。扉を開けると、いたみが目の前に立っていた。少し身長の低い彼と目を合わせるため、顔を下に向ける。
「梶、僕今から仕事行ってくるね」
「ペアは……さしもさん、とか?」
「ううん、梶とだよ」
あまり驚かなかったが、目が合ってからの第一声に違和感があった。だが、あまり待たせてはいけないので準備を進めようと思ったところを引き留められた。強く握られた手首には、何か重みがある。
「今日は僕一人で行くよ」
「えっ、でも、なんで」
うまく言葉にできない。だが、言いたいことはわかってくれたようで表情を変えずに話した。
「今日は休んだ方がいいよ。大丈夫、一人でもきっとできると思うから」
言い返そうと思ったが、半ば強引に部屋の扉を閉められた。扉に耳を当てると微かに聞こえる、遠ざかっていく足音をどうすればいいのか梶にはわからなくなってしまった。




