第百九十八句
「あこがれていた人だったのに」
「ヒュッ」と喉が閉まったまま息をしたような音がした。鏡はないが、顔がこわばっていることは滝自身でもわかった。本能で両手が下へ行き、万が一転んだ時に手を付けられる姿勢になろうとしていた。だがタイミングが悪い。
膝を曲げられる余裕はなくそのまま前のめりになっていった。本能があろうが時間には逆らえない。顔から地面に激突した滝の顔は傷だらけで、鼻血が出ている。顎に届きそうなものだけを袖で拭いて立ち上がった。数はだいぶ少なくなってきたが、やはり初めに前線に出てきた者たちはすぐに向かって来る。その場でステップを踏み、どこから向かって来るかを瞬時に判断すると目の前に来るまで止まったままで間合いに入られたときに素早く腹を殴った。
見かけによらない力強さを最大限に生かし、あとは集中力との勝負だ。左右から来たと思えば、雑だがいつの間にか囲まれていた。影人にしては良い作戦を考えたものだ。だが戦略は決してうまくいくわけではなく、自由さが顔を出した。それぞれがまばらなタイミングで向かってくるのだ。髪を振り乱した女性が行ったのを皮切りに今度はその対にいる者が、その隣が、と連鎖していく。どれも上からくるので低姿勢で動きを見た。
両手を押さえに軽々と逆立ちのような姿勢になってから器用に首へ掴まり、続けて手を首の後ろに回すと思い切り顔を反らせてから頭突きをした。今はそれくらいしか思いつかない。着地すると後ろからきた子供の着物の襟をつかんで地面へ押さえつける。致命傷である頭を避けながらだったのでまだ動きは止まっていない。腕を軽くひっかかれてさらに着物へ血がついたが、首元へ手を当てて気絶をさせた。この自由人の中にいては危ない。怪我の確認を済ませ、抱きかかえると目の前にあった木の枝につかまった。
影人たちのジャンプ力は通常よりもはるかに高い。それはわかっている。だが、人一人を抱えながらだと思い通りに動くことはできない。片手で枝を掴んだまま両足を同じタイミングで前後に動かし、だんだんと揺れる範囲を大きくしていくと次の枝へ飛び移った。何回も繰り返し、影人たちに追いつかれそうになりながらも子供を目立たない場所へと避難させた。
(さて、毒抜きは優雅にやってられないな)
ずっと追いかけられていたのですぐに追いつかれたが、ポイズンリムーバーでなるべく早く毒を抜いた後に注意をこちらに引き付けて、何とか最初の位置に戻った。先ほどまで滝を追いかけていたので隊形を組むのは無理だったようだ。一直線にこちらへ向かってくるところをリズムよく連続で殴り、倒れたことで見えた背中に乗って次の影人に備えて構えた。
もう足を滑らせることなんてしない。澄んだ目が影人を真正面から見つめ、周りの木々や影人たちを使って順調に攻撃を重ねていく。まるですべてが滝の味方になっているようだった。巨体の男性が、滝よりも一回りほど大きい手の爪を向けてくる。恐らく、勢いをつけられて引っ掛かれたら一発で終わりだ。
両腕が背中まで引かれるのを見ると前傾姿勢をやめ、体を引くために一度力を抜いて真下へ降りた。その下には先ほど倒された影人がいる。足裏がついたところで軽く蹴ると、滝の体は後ろへ跳んでいった。次に足がついたのは木の幹だ。両手が前に出され、空振ってすぐに飛び出した。軽い体が他の人よりも勢いを出す。
足が最後に来るように途中で姿勢を変え、勢いを崩さぬようにそれを保つ。まだ手は後ろにある。目線は影人の腹の下あたりだった。早く鋭い蹴りが影人に入る。反動は大きく、数メートル飛ばされた後に数メートル飛ばされ、少し奥に滑るように着地していた。滝も余韻で少しだけ前に出たが、ちょうど良いところで勢いが削がれた。
これで、列になっていた影狼は全て倒しただろうか。周りを見渡すと先ほどまで戦っていたとは考えられないほどの静かさだ。ポイズンリムーバーを出すと、大量にいる散らばった影人たちの毒抜きを始めた。




