第百九十一句
「聞こえるぞ、私の名声が」
あくるが準備をしようと部屋に戻る廊下ですれ違ったのは、もがなだった。どうやら行き先は滝の部屋だったらしい。
「仕事、ですか?」
部屋から出てきて同じ方向を進むもがなに突然聞かれた。あくるはそれが分かったのに驚いていたらしい。しばらく口を開けたままだった。
「どうしてわかった?」
「なんとなくですね。あくるさんはいつも仕事の時、真剣な表情をしているのですぐにわかります」
「……そんなに顔がこわばっているのか」
自覚は内容で、両頬を手で押さえて眉が八の字になる。何か失礼なことを言ってしまったような気がしたもがなのフォローも聞かずにすたすたと先へ進んだ。
「俺が滝を呼んできますよ」
「本当か?それは助かるな」
と言ってもほぼ隣に近い位置だ。それでも、表情を柔らかくして承諾すると足早に『055』と書かれたナンバープレートを揺らしながら、もがなは滝の部屋へ入っていった。
あくるは扉を優しく閉める。窓際からの木漏れ日しか頼りのない部屋の左側には大きなドレッサーがある。座ることはしなかったが机に手を置き、鏡に映った自分の顔を覗き込む。特に何かがついているわけではない。何も変わりないのだが、なぜか表情が暗く見える。前髪を少し上げてみても変わらない。
再び頬に手を当て、口角を上げてみる。不器用な笑顔だ。その後も何回か精一杯の笑顔を鏡越しの自分にしてみたが、どうも納得はできなかった。
(思えば、最後にちゃんと笑ったのはいつだっただろうか。覚えていないな)
髪を結びなおしてから再び部屋を出た。
ドアが三回ノックされる。この爽快なリズムから、丁寧な者だということがわかる。滝による謎の直感は当たった。「はーい」と、少し声のトーンを高くして返事をするとは言ってきたのはもがなだった。正面にいたさしもがすぐに座れるスペースをつくろうと立ち上がる姿勢をつくったが、右手のひらを前に出して丁重に断っていた。
「滝さん、仕事が入りました。あくるさんと一緒です」
「ありがとう。ごめんな、さしも」
軽く笑い返したさしもと同時に立ち上がる。丁寧に扉を開けてくれたので、少し顔を上にあげて目を合わせるようにして会釈する。廊下は窓が少なく、多少の蒸し暑さがあるのですぐに姿見の部屋へ駆けこもうとした。
不意に着物の首元を引っ張られた。誰かと思えばあくるだ。本人は意識していないことだと思うが、高圧的な視線は少し怖い。思わず言いそうになった口を押さえるとあくるは手を離し、胸の前で腕を組んだ。
「何をしている、早く行くぞ」
「あの~、なんで僕なんですか?」
「そうめんの件の責任はお前にあるからな」
「一切関係ないんだけどなぁ……」
苦笑いで返した。一回まで続く階段は昼下がりということもあって光が静かだった。なんとなく眠りたくなるような雰囲気に押しつぶされぬように気を張る。
姿見の部屋に入った瞬間、その眠気は少しだけ促進した。窓のなく、壁際にある大きな機械から伸びるコードは姿見の後ろに集結している。絡まるコードを回避するのには機会と姿見から発される光しか手掛かりがない。だがもう慣れたものだ。あくるの高いヒールでも、滝の厚底な下駄でも、前を向いていてもだいぶ歩けるようになってきた。
催眠術をかけてきそうな禍々しい模様の中には、先ほどまでの眠気を吹き飛ばしそうなにぎやかな雰囲気があった。人が多く狭い通路ながら密集している。恐らく、祭りなのだろう。しばらくその風景に呆然としていた二人は影狼のことを思い出すと急いで人混みを分けて何とか人のいないところまで移動できた。
近くに転送されたということは、この近くに影狼や黒マントが潜んでいるのだろう。かといってもう一度人混みの中に入るのは危険だ。どうしようかと考えていると、いきなり滝が立ち上がって前線に来た。
「ここは、僕に任せてくださいな」
『滝の音は 絶えてしなくば なかなかに』
右耳に手を当てると、吸い込まれるようにこちらへ向かい風が襲って来た。