第百八十九句
なほが近づいていくたびに、黒マントは体を圧迫されていった。身体の問題ではない、心の問題だ。先程公言していた通り、今の能力の原動力となっているのは自らへの怒りだ。うまく調節がでいている。
常に一定の感覚のはずだが黒マントは相当取り乱しているようで荒い息がよく聞こえる。抵抗してこないことがわかるとそっと手を伸ばして両手首を掴んだ。
『なほ恨めしき 朝ぼらけかな』
能力を解除した瞬間に黒マントはぐったりと前へ倒れた。それでも手は離さずに後ろへ回して完全に動けない状態にする。決して力を緩めることはせずにさしもの方を向いて今までよりもいい笑顔を見せつけた。
これには思わず、さしもも笑い返す。物音を立てずに近寄っても動じない黒マントを見て小声で話し始めた。
「やった、やったよ!」
「さて、すぐに館に戻ろう」
ものすごく感極まっているところだが、まだ油断はできない。本人からの立候補でなほがおぶって姿見のところまで行くことにした。しっかりと体を支え、立ち上がろうとしたその瞬間だ。
近くで指を鳴らす音がしたのだ。一瞬何が起きたのかと思えばなほの体がいきなり地面に吸い込まれたように見えた。急いで手を伸ばすと見えたのは見覚えのある暗闇だ。徐々に無秩序に並べられた石の壁が出てくる。
やはり井戸だった。必死に右手て壁につかまっているなほの手首を掴んで引っ張るがいつもよりも重く感じた。よく見ると意識を失っているはずの黒マントがその肩にしっかりとつかまっているではないか。
「引き剥がせるか!?」
「だめだ、力が強い!」
ぬか喜びだった。意識を失っていたのが演技だったなんて、信じられるはずがない。いくら体力が残っているとは言えど全体重をかけられて長時間ぶら下がることなど不可能。落ちてしまうのも時間の問題だ。それを必死に支えているさしもも限界に近い。少しずつだが、手がすり抜けていく。
『かくとだに えやは伊吹の さしも草』
『明けぬれば 来るるものとは 知りながら』
重なりながらも再度能力を発動させると、さしもは黒マントの上に手を当て、なほは指先に力を込めて井戸に掴まった。
「「うおぉぉぉぉぉッ!」」
二人の共鳴は、あたりに鳴り響く。なほの能力に抵抗していた黒マントは、いつしかさしもの炎に耐えきれなくなってとうとう手を離した。暗闇へ真っ逆さまに落ちていくのを見届けることなく、なほはさしもの力を借りながら這い上がった。
足先が出た瞬間に井戸が消えたのは、最後にして一番肝が冷えた瞬間だった。疲れが一気に背中に乗っかってくるような感覚がした。大きなため息をついてからそれぞれ能力を解除する。立ち上がり、改めて帰ろうと立ち上がってもなほは顔を上げず、一向に立ち上がろうとしない。
「……どうしたんだ?」
「……俺のせいで、黒マントを逃がしちゃったな、って」
大体予測のできていた答えだ。しゃがんで目線を大体同じにすると、さしもは優しく笑いかける。
「何言ってるんだ、あそこまで黒マントを追い詰められたのもなほのおかげじゃないか」
「で、でもっ!」
勢いあまって立ち上がると、先に続く言葉が出ないのか困り眉になってそこに立ちすくんだ。
「なんだ立てるじゃないか。さ、早く帰ろう」
完全に納得はできていないようだが、大きくうなずいて姿見に戻った。
二人の姿を見た衛士はさぞかし驚いたことだろう。見ているこちらが痛くなるような大怪我をしているのに何事もなかったように笑っている。そこに居合わせた末も同じような顔をしていた。
「えっと、大丈夫……なのか?」
「すぐにお休みになられたほうがいいですよ」
一応話は聞いているようだが、通じているようには思えない。四人で席について談笑していると大皿を持った葎が現れる。後からもがなが規律よくお椀を並べてから座る。大皿の中には何個かに区切られたそうめんがあった。
「これ、どうしたんですか?」
「露さんたちからのお裾分け。流しそうめんしてたらお腹いっぱいになっちゃったんだって」
「他の人達も呼んできます?」
衛士が携帯を取り出すも、葎は首を振った。
「どうせ量も少ないんだし、ここにいる人達で食べちゃおうよ」
「あぁ、来なかったやつが悪いからな」
葎ともがなの悪い顔に、皆は思わず笑った。