第百八十二句
「本当に嫌いだよ」
体勢を何とか保って立て直したさしもは、いつもと様子が違った。低い姿勢でもよくわかる鋭い目つきや明らかに影狼たちを警戒しているのはわかるのだが、それ以前の話だ。夜闇でもよく目立っていた髪色に匹敵する、赤々とした炎が口から吹かれているではないか。息を吸って吐くたびに大きくなっていく状態で一気に目の前まで接近した。
さしもの句能力:体のあらゆる場所から炎を出現
よく見れば手足からも火花が散っている。歩く凶器となったさしもは一切躊躇を入れず、ただひたすらに飛び掛かっていった。必死な中でも冷静な判断は途切れない。影人の目の前まで来た時に炎の勢いを使って飛び越えると、その後ろにいた黒マントに化けた影狼の肩をしっかりとつかんだ。
着地した瞬間、影狼に負けないくらいに大口を開けると迷いもなく肩に噛みついた。骨まで食い込む痛さに加えて、口からの炎の熱さに耐えられるはずがない。影人を操る暇もなくなってしまった影狼はあっという間に噛み砕かれ、さしもの口内には少量の灰があった。
「人を弄ぶとは大したことをするんだな。それにしても、私を怒らせるとはたいしたものだ」
今までぴんと張っていた糸が緩んだか、あるいは切れたかのように膝から崩れ落ちた男性のもとへ駆けより、ポイズンリムーバーで毒を抜く。正直油断はできない。影狼はまだ倒しきれていないからだ。影人を視界に持ってきたもう一匹を探さないと終わりにはならない。
毒を全て抜いたところで、見計らったかのようなタイミングで小型無線が鳴り出した。耳を近づけ、いつも通りのなほの声を聞き取った。
『もっしー、さしも?そっちに何匹か影狼行ったからお願いできる?無理だったらいいよ』
別に嫌なわけではない。むしろ好都合だ。せっかくの機会を逃さんというばかりに返事をした。
「問題ない。君は自分の仕事をやりたまえ」
無線をしまった瞬間、目の前に現れたのは噂の影狼だ。薙刀をしっかりと握る手からは、少量の炎が垣間見えていた。
『問題ない。君は自分の仕事をやりたまえ』
先ほど、右側に行った影狼を頼んだ時に返ってきた言葉だ。相変わらず落ち着いている。むしろ、落ち着きすぎていて怖い。能力の出力を無理やり大きくしたため多少の体力は削れているが、まだ左側には影狼が残っているのだ。
(あ、いた)
ご丁寧に、その背中は塀にぴったりとついている。能力を使えば一瞬で追い込めると思いライフルを両手で構えた。だが、屋根から飛び降りようとした瞬間に何者かが出てきて足を掴んだ。勢いをつけすぎて前のめりになり、頭が下になっている状態で落ちてゆく。急なことに焦りながらも銃口を建物の壁に当て、少しでも勢いが減るようにした。
不格好な体勢ながらも何とか着地する。跳び起きて後ろを見ると、黒マントがこちらを見下していた。すぐに動き出そうとはするが後ろには影狼が睨んできている。息を整えながら一度思考を処理した。
(この黒マントは化けた影狼か?いや違う、後ろにいる影狼で全部だ。そうなると――)
意識を前に戻したときには黒マントの懐から銃口が見えていた。上半身を倒しながら避ける。頬にかすれながらも通っていった弾はそのまま後ろの影狼に当たり、一匹は灰になってしまった。鋭く、無情な弾だったのだがそれ以上に怖いことは仲間を撃っても動じないことだった。
(本当に気味の悪い奴らだ。俺たちを倒すという同じ意思を持っているのにも関わらず撃てるなんて、機械みたい)
何事もなかったように攻撃を再開させた黒マントを睨み、息を大きく吸いこんで地面へ手を付けると無理やりに土を握って力を込めた。あっという間に影狼と黒マントは見えない壁に押しつぶされてゆく。あまり強くはないが時間稼ぎにはなるだろう。
夏の蒸し暑さのせいだろうか、顎から下たち落ちるほどに汗をかいている。だが、黒マントも大きく息を吸い込む動作をして体全体に力を込めていた。
するとどうだろう。黒マントはゆっくりと、その壁を突き破ってなほに近づいていった。