第百八十一句
「君は僕のこと、嫌いなのかい?」
高く跳んださしもの目に映るのは、屋根の上からこちらを見上げている男性の影人。そしてそのそばに見えたのは、まったく同じ動作をしている影狼だ。
(おっと、予想より近くにいるじゃないか)
薙刀を両手でしっかりと握って向かったのは影狼の方だった。風で引っ張られる三つ編みが肩についたとき、影狼は反射的に飛び上がって避けた。ふわりとなびく羽織がより一層彼の柔らかい雰囲気を演出した。だがそれと裏腹に、着地して間もなくの動きはあり得ないくらいに速い。気づいたら目の前にいるのだ。
視界に入れなければ影人は操れまい、という少しばかり強引なやり方で押し切ったが、手ごたえはある。速さを変えずに一気に後ろへ回りこむと少し離れた塀と挟み撃ちにしようと攻めの姿勢に入った。
薙刀では小回りが利かず、一振りに時間がかかるので逃げられる可能性が上がる。動き出しが一秒以下か否かの世界に入った両者にとって余計な間は絶対につくれない。そうとわかると一度武器はしまって羽織の袖をまくった。互いに逃げないかを見張りながら呼吸を整える。
大きく一歩を踏み出したかと思うと影狼の体を越える高さで体を横回転させて跳んだ。周期が合わず、ちょうど頭上で仰向けになってしまったが腰のひねりを強くしてすくい上げるかのように蹴りを入れた。空中に飛ばされるが影狼も負けじとこちらを見てくる。瞬時に黒マントへ変身すると両手をできる限り伸ばして肩を掴もうとした。それを察したようでさしもも腕を伸ばし、どちらが先に折れるかの耐久戦へ持っていった。
だが、すぐに影狼は力を抜いて体重を前へかけた。それにつられてさしもも前のめりになったかと思いきや股下を潜り抜けられて背中を取られた。顔を振り向かせた瞬間に頬へ痛みが走る。左から拳がもう一発来ていることを読み取り、すかさずしゃがんで右手を支えとして両膝を曲げてから勢いよく伸ばした。
ちょうど脛に当たって体勢を崩し、派手に転んだ影狼を見下すように立ち上がる。さしもは満面の笑みでそれを言った。
「これで、おあいこだな」
だが、嫌な気配がしたのはそれからすぐだった。ほとんど転ぶ形でしゃがむと、何者かが空中で回し蹴りをしてきた。影人となった男性だ。ありえない状況に混乱しているといきなり頭を掴まれて地面へ叩きつけられる。血まみれとなった額から出る血をこすって止めながらも必死に状況を理解しようとした。
(どういうことだ⁉この影狼の視界には影人はいない。なのになぜ動いている。いよいよ透視能力でも付け加えられたか⁉)
オーバーに首を振ってそんな邪念を押し殺すと、最も単純な答えが出てきた。別の影狼が近くにいる、という考えだ。顔を上げると一度距離を取って周囲を見渡した。だが、景色以外には何も見えない。それ以前に嫌でも視界に影人が入ってくる。一気に接近戦となってしまったこの状況においてはやはり数が重要なのだろう。
何もいないにしては影人の動きが変わっていない。屋根に乗って確認する暇もつくってはくれずに間合いに入って重い拳や蹴りを入れられた。薙刀で盾をしてもいくらでも隙をつかれる。息切れをしても決して手を緩めてはくれなかった。
(だめだ。もう一匹の影狼が見つからないのに影人の速さが変わってない。まさか今、影人を操ってるのは目の前にいる黒マントの方なのか)
姿なきもう一匹の影狼が影人を操ったのは、もう一匹の影狼が見える位置に持ってくることだということだ。視界に入ってさえいれば操れるというルールを利用したやり方だ。殴られて視界がぐちゃぐちゃと乱れてゆくたびに、のどや腕へ溜まる何かがあった。今すぐ吐き出したいが、ただ吐くだけでは満足できないものだ。
腹に蹴りを入れられ、とうとうそれが何かということがわかると、小さく和歌を唱えた。
『かくとだに えやは伊吹の さしも草』