第百八十句
「ごめんね、生きられなくて」
気がつけばさしもの姿はどこにも見当たらなくなっていた。
『なほ恨めしき 朝ぼらけかな』
影狼もいなくなり、発動していても無意味になってしまう能力を一度解除すると反対側へ駆けていった。屋根の右、左の端で分かれるとは言ったもののさしもはそれほど注意力がない人物ではない。
(まぁこれは、俺がさしもを信頼してるって意味にもなるからね)
しばらくしたところで足を止めると、その場へ座って足を前後に揺らしながら景色を見た。着物を抜けて肌へ自然に入ってくる風が気持ちいい。暗闇の中でぽつぽつと穴が開いているように居座る星は視界を埋め尽くす。
ふと、どこか遠くから声が聞こえてきた。人のものではない、動物だ。すぐさま頭には影狼が浮かび上がり、聞こえた方向へ顔を向けた。そんなに遠くはない。最大でもこの宮中にいる。そんな直感を頼りに屋根を飛び移りながら声をたどった。
やってきたのは宮中の一番角にあるところだ。他と比べると建物は古びており、どことなく近寄りがたい雰囲気を持っている。その建物たちを囲うようにしだれている柳の葉の下は一層影が深くなっている。何かと思えば次々と柳の下には影狼が並んでいた。そのうち手前にいた一匹を狙い撃ちし、素早く地面へ降りて建物へ隠れた。
あっけなく倒れた仲間の次に見られたのは先ほどまでなほがいたところだ。その間に適当に何発かを影狼たちのもとへ撃つと一目散に走り去った。何とか避けた影狼たちが走り出したときにはもうその姿はない。中心にいるものの一鳴きで一気に散らばった。足音を聞きながら建物の隙間を縫うように移動してゆく。たまに空へ発砲してすぐに去ることで場所のごまかしがうまくできる。
とうとう気配も感じられなくなってしまった影狼は諦めたように建物の隙間へ集まった。そこへ、いきなり影が被さる。空中で大きく息を吸って人差し指と中指に力を溜める。緊張が走りながらも引いた引き金は何度も反動を起こして体を揺らした。両側に壁があるということもありすぐには逃げられず、手足をじたばたと動かしながら避けてゆくところを滑稽に思いながら急降下した。足を使って片端へ体を寄せながら着地することで自らを大きな壁にできる。
(さ、ここで撃ち込んだら……)
足裏の筋肉が直に地へ触れた痛みがありながらも止まることなく、マガジンが許す限りは連射した。わずかな隙間から二手に分かれたのを見てから再び屋根の上に飛び乗る。ノールックで装填――はできなかったが、行き先は大体わかった。
左右同時に行くことは不可能だ。逃したらその間に何かを企んでくるだろう。迷いに迷った結果、耳元に手を当ててしばらくその場で止まってから急に立ち上がった。目線は左側。もう戸惑うことなく飛び出していった先には驚くほど余裕そうな様子の影狼がいた。多少息は切れており、肩が上下に動いているもののこれはチャンスだ。足の止まっている間に気づかないくらいの所から高く跳んだ。
能力を発動させるために和歌を小さくつぶやくと、歯を食いしばり眉間にしわを寄せた。血走った眼をひたすら影狼たちに向けながら近づくとその頭上から五メートルほど離れたところでなほは宙に浮いた。それと比例するように影狼の体が地面に押さえつけられている。まるで両者を隔てる厚い壁があるかのようだ。
隔離が優先されるこの能力においては当たり前のこと。右手だけをぶらんと垂らして銃口を向けると体勢はそのままに頭を貫く。顔に跳び散った血を手で拭くと、もう灰になっているというのにとどめを刺すかのようにその背中へ着地した。
すっかり穏やかな表情に戻っているときにそばから物音が聞こえた。自然と首が向くと、獣ながらも青ざめているとわかる数匹の影狼。きっと、一部始終を見られていたのだろう。呼吸を整えて目を見開くと、能力を使わずともその風格に押しつぶされそうになっていた。