第百七十九句
「本当に罪な人」
体はそのままに振り向いたなほの顔は、決して逆らってはいけないような風格をしていた。目を見開いて小さくなっている瞳孔はまっすぐに影狼を睨む。そこにはいつも笑顔も何もなかった。そして一言。
「邪魔」
と言った瞬間に影狼の体はさしもの頭を飛び越えて建物の後ろまで飛んでいった。
なほの句能力:『来てほしくないもの』との隔離
何も言わずに体を正面に向けて狙撃を再び始めたのに圧倒したが、なほと戦っていたらよくあることだ。特に集中しているときは危ない。小さくため息をついてから吹き飛ばされた影狼たちを追う少し震えながらも立ち上がっていた。
(へぇ、なほの能力を受けても倒せないか。あの子、手加減したな)
さっきの対応は怒っていると言ってもそこまで本気ではなかったと見れる。無慈悲な笑みを向けると薙刀を構えて瞬時に飛び掛かり、あっという間に斬った。屋根の上から狙撃音は消えている。あちらも終わったようだ。
再び屋根に戻ったころにはいつもの何を考えているかわからない目で見つめてきた。左手に持っている布でライフルを磨いている。最初に聞いたのはやはり疑問に思ったことだろう。
「なほ、もしかして手加減した?」
「俺の能力に“手加減”なんて機能はないよ。集中しててそんなに怒れなかったし」
やはりどの能力でも『感情』というのは大きく関わってくるようだ。特に怒りや悔しさは心身状態にも膨大な力を与える。先ほどのなほの雰囲気を思い出し、背中を震わせながらそんなことを思った。
ここから影狼は見当たらない。だが、ここで地上に戻るとまた囮を使われる可能性がある。大きな建物の屋根の上を、さしもは左側、なほは右側よりに移動してそれぞれ影狼がいるかを確認した。配置は適当にじゃんけんで決めたが、五回以上はあいこが続いたので少し時間を食ってしまった。
定点カメラの回収を忘れたというなほと分かれ、過ぎてしまった時間の分をしっかりとカバーするために走って移動した。風の多く、現代とは大違いの涼しさを感じながら汗と呼吸を忘れるほどに走った。しばらくして端が見えてくるくらいまで来たとき、建物の隙間からうめき声が聞こえた。影狼の鳴き声よりも弱く、人の声だ。
化けた影狼か、影人の場合にも備えて一応背中に武器を隠して行くと、そこには壁にもたれかかっていびきをかいている男性がいた。身のなりからして、この男性も役人なのだろう。何度呼びかけても起きそうにないので片腕を肩に担がせ、ひとまず安全なところまで移動しようと一緒に立ち上がった。ここにいると影人にされる可能性が高い。
(まったく、どんなにすごい人でもお酒の前だと皆こうなんだよな)
全体重をかけられている感覚に耐えながら隙間を出ようとしたその瞬間、男性の体がわずかに動いた。罪悪感を抱えながらも腕を離したのは大いに正解の行動だったようだ。瞼の下にある目はこの暗闇でも赤く輝き、上下に生えた大きな牙がよく見える。
もうすでに、この男性は影人になっていたのだ。影人が出始めた時と比べたらだいぶ擬態がうまくなっている。両側の壁をうまく使って屋根へ逃げようとしたが、それを越える速度で先に着かれた。
(今回の影狼たちは、本当に苛立つやり方をするものだ)
真正面から噛みついてきた歯を、体の前へ持ってきた柄で押さえる。かなりの力に押されて落ちそうになったものその状態をうまく利用して柄を一回転させた。腕に集中させた力がうまく働いたことで体勢が崩されて仰向けで背中を強打している。起き上がる可能性も配慮して隣の建物へ移ると一瞬で立ち上がって向かって来た。
決して一直線には逃げずに道を挟んだ建物にも移り、ひたすら逃げてゆく。まったくスピードが落ちないのは操っている影狼があまり体力を使わない位置にいるからなのだろう。何かを思いつき、胸の前で指を鳴らしたさしもは正面にある月と重なるくらいまで高く跳んだ。