第百七十三句
「なんてつらいんだ……」
数分前――
黒マントを倒してから数秒後、すぐに立ち上がったもがなにはまだ嫌な気配がしていた。黒マントが逃げて終わるような連中ではないことなんて何人からも聞いた。
その嫌な予感はすぐに的中した。肉眼で見える限界の距離に近い場所に井戸と思える物体が出現したのだ。しかも何かが不格好に零れ出てきている。なにかと思えばそれは、まばらな服装をしていた。
(化けた影狼?いや、動きが不自然すぎる)
すぐに影人ということがわかると、まずは大まかな人数を確認しようと近づいた。だがその後ろにあった赤い目がまっすぐこちらを睨んでいるのが分かるとためらわずに後ろを向いてひたすら走った。数メートル後から追いかけてくる影人たちは動きをそろえて追いかけてくる。すぐ目の前にあった館の前で葎を見つけると、縋るようにまっすぐ走っていった。
もがなは素早く葎の前へ行くと、能力を発動させた。すでに近くまで来ていた影人たちが攻撃を仕掛けてくるまでの時間を伸ばされるだけでもだいぶ違う。館の部屋の奥まで進み、身を隠すと葎は急いで聞いた。
「もがな君、どれくらい時間稼げる?」
「最大五分くらい伸ばせますけど……」
「いや、一分でいいよ。それだと君の体力を使うことになるんでしょ?」
まっすぐと見つめてきたその目は、もがなの呼吸が明らかに乱れていることを捉えた。
「僕も体力が少ない。できれば、協力して倒そう」
「わかりました。では……」
顔を見るのに上を向くのが必要なくらいに大きな体が立ち上がると、首を左右に振りながら器用にネクタイを外した。武器は出さずに両手でネクタイを引っ張りながら襖の手前まで移動した。
後ろに小さく次が見える草原がその姿を照らすのを見ながら葎も立ち上がった。弾の重さが一層重く感じる。
「能力、解除しても良いですか」
「いいよ。早く終わらせよう」
解除されるとともに二人は部屋を飛び出した。視界の半分以上を埋め尽くす影人がわらわらと大群を作って近づいてきた。その場でしゃがんだもがなの肩に乗って飛び出すと、群の後方へとまっすぐに跳んでゆく。
そこに見えたのは影人たちから少し離れたところで鎮座していた影狼だった。優雅に一回転しながら片足を真っ直ぐ伸ばすと、風を切りながら地に向かった。
相手は影人。なるべく傷をつけずに倒したい。もがながそう思いながら取り出されたのはワイヤーガンだ。できるだけ近づいて発射すると一部を捉えることができる。銅線の中で暴れまわっている少人数をさらに縛り付けると、上に跳んで一気に急降下した。後ろに構えられているのは外していたネクタイだ。体を半回転させながらそれを顔に当てると、たちまち倒れてしまった。
ネクタイとは思えないような鈍い音だったので相当なダメージだろう。攻撃を受けて倒れそうになっていた者の肩を借りて再び空へ舞い上がると、仰向けの体勢で体重をかけて落ちた。ネクタイは影人の直前に来た瞬間に鞭のように硬くなり、軽く気絶するほどに強く打つ。
(これでしばらくは持ってくれる。だが……銅線で取り逃がした者たちがどんな動きをするかわからないな)
案の定、数人の影人は銅線の周りへと群がってきた。細い銅線を掴んで力任せに引っ張られてゆく。だがそれをチャンスに着地先を一人の背中にして足がついた瞬間に大きく蹴りを入れた。そこから一周するように倒してゆくと地面へと舞い降りた。
素早い動きから相当外側にいた影人への操りを強くしていたことを裏付ける。少人数となったことでゆるくなっていた輪を強く絞めてから大きく息を吸い、勢いよくしゃがむと同時に銅線を掴んで後ろから前へ投げた。ダメージに多少のばらつきはあるが一気に動かなくなる。
安心したのもつかの間、葎の方を向くと相当苦戦しているようだった。すぐに向かったが近くに行こうとしたとき、雅な着物の袖が行く手を阻んだ。