第百七十句
「おじいさま……」
家の端――、つまり、廊下の行き止まりまで来てしまった。ゆっくりと、こちらの混乱を増幅してくるように近づいてくる。透明化と言っても声は聞こえないわけではない。葎は必死に両手で口を塞いだ。荒ぶる息と鼓動を何とか押さえてから深呼吸をし、相手の足の動きに合わせて一歩ずつ引いてゆく。いつしか、後ろにある壁の存在など忘れていた。
だが、緊張は完全には消えなかったようだ。かかとが壁とぶつかって鈍い音を出す。思わず「ヒュッ」っと声を出すといきなり加速し始めた。さらに足を踏み外し、頭を壁にぶつける。かと思いきや、痛みは一切感じなかった。どうやら本能的なものから出た力で透過が使えたらしい。下半身を支えに逆さになっていた上半身を起こして何も音の聞こえない壁の内側に戻ると、少し間を開けて壁へ向けて銃を構えている黒マントがいた。
(なるほど、まだ僕は内側にいると思ってるのか)
それに気づくといきなり得意げな顔になり、一度体を全て外側へ出すと二、三回ノックした。再び透過を使って内側へ戻るころにはその姿はなく、入れ替わるように戸を開ける音がした。どうやらうまく誘導することに成功したらしい。
とはいっても油断はできない。最初にいた部屋の前まで戻るとまだ化けた影狼たちが残っていた。気づかれてはいない。透過の状態で極限まで近づき、脇をしめていても銃口が当たるくらいまでに近づいたときだけ透明化になった。すぐに透過へ戻せばよいだけなので返り血もつくことがない。視線がこちらへ移るごとに頭上に跳んではその後ろへ移動するを繰り返した。
まずは下半身、太ももやふくらはぎを撃って動きを止めた後に近づき、マントの首元にあたる皮を掴んで完全に逃げ場をなくす。抵抗もされたが先に足を高く上げ、かかと落としを頭に喰らわすことでほぼ気絶状態となる。
姿の見えない状態で混乱しているため、先ほどよりも明らかに攻撃がしやすい。あっという間に倒し、一度能力を解いた。いつもは使わない力を使うのが能力にありがちなことだ。すっかり静かになったかと思いきや、遠くからでもわかりやすい集団が迫ってきていることに気が付いた。黒く、人とは思えないものだ。
(あれは……影狼?)
その疑問は、すぐに確信へと変わった。
ようやく着いた先は、やはりはじめに見た館だった。もがなは一層気を引き締める。最初見たときから怪しい影が見えたのでうすうす感じていたが、これで疑惑が高まった。葎が間違っているとは思えない。
ヤエムグラを分けながら近づいていくと、乱暴に戸を開閉している人影が見えた。館には十分近いが、その姿はどう見ても影にしか見えない。
(あれは……黒マントか?)
大振りにひらひらとしている布で黒マントだと認識すると短刀を取り出し、静かに近づいていった。何か壁に向かって銃を構えていたり、周りを見渡している。動きからして化けた影狼に違いないだろう。それなら、とワイヤーガンを構える。黒マントなら先ほどのようにかわされたり壊されたりするだろうと思っていたが、おそらく動き的には化けた影狼だ。
茂みから出た瞬間、こちらへ背中を向けたときにワイヤーガンの引き金を強く引いた。風もなく、邪魔をされることなく一直線に進んでゆく。だが、何事もないように少し小走りで位置を変えられ、銅線は静かに地面へ落ちる。
(おかしい。いや、今のは偶然だ)
そう言い聞かせながら再び静かに銅線を回収する。もう一度銃口を向けたその時だ。視界の下の方に映っている、きらりと光るものに注目した。それは黒マントの袖の下あたりから見える。動きを止めてじっとそれを見ていると出てきたのは、恐ろしいほどの速さで近づいてくる弾丸――。
膝から崩れ落ちて避ける。もがなは呼吸が細かくなっていた。冷や汗も出ている。今目の前にいるのは本物の黒マントだったからだ。次々と連射してくる黒マントに映るもがなの表情は、絶望に満ちていた。