第百六十六句
「もうすぐ秋だ」
葎の手のひらには、正真正銘の人肌の感触がある。戸惑っている様子の僧を横目にその袖を上へ引っ張った。すると、なんということだろう。肌と袈裟が一向に離れない。糊でくっつけられたようになっている。それで葎の疑問は確信に変わった。
(あの影、明らかにこの人の身長よりも小さかった。ただの来客?いや、もがな君も警戒するくらいだからやっぱり違う)
何も言わずにただ、その揺らぐ黒目を見つめながら考えた。影狼は人の表面しかコピーできないのだとしたら、辻褄が合う。
「貴方、影狼をご存じですか?」
「さ、さぁ、聞いたこともありませんね」
明らかに怪しい態度だ。こうなれば、なんとしてでも自ら真実を吐いてもらわないといけない。そうと決まると懐から銃を取り出して袖と肌の間にねじ込んで構えた。
「正直に答えられないのなら、袈裟と肌を引き離してあげますよ。これでは作業も大変でしょう」
あちらから一気に血の気の引く音がする。影狼の状態だったら、肌を引きはがすのと同じことだ。いきなり顔を下に向けたと思うと、先ほどまでの優しそうな姿はどこへやら、鬼の形相へと様変わりした。まず爪と歯が向かったのはやはり袖を押さえている手だ。銃をしまい、左手で相手の肩を掴むと体を上げて両足を背中へ当てた。かかとが直撃したので生ぬるい痛みではないだろう。
今まで敷地内からは出ていなかったが今の衝撃で前へこけてその姿を現した。すぐに拘束しようと思ったが、ありえない速さで数メートルの距離を取られていつの間にか元の狼の姿へ戻っていた。正体が明確になったのは良いが、倒すのが難しい。
すっかり静かになってしまった空間にしばらく立ち、じっと目の前を見つめる。葎の銃は天つと同じく消音機能があるが、完全なものではない。そのため静かなところだと分かりやすくなってしまうのだ。遠くまで耳を澄ませ、分かりやすい物音が来るまでを待つ。
目を細めた瞬間に、そこを狙っていたかのように強風が吹いた。もがなから逃げてしまった時と同じくらいの風だ。ヤエムグラと遠くにある木々が必死に揺れている音を聞くとすぐに近づく。頭上に跳んだ瞬間にしゃがんで前に進まれるが、それでも自分の体が逆向きになっただけで有利ともいえる。
両手でしっかり銃を押さえると頭から着地しながら後ろを撃った。後頭部に弾が突き刺さり、体を硬直させながらぐったり倒れたところを見てから、背中を強打して体全体を着地させられた。
「あー、頭に血がのぼって気持ち悪かった!」
弱くなった風に乗せて独り言をつぶやくとすぐに立ち上がり、館の入口へと足を踏み入れた。静かに扉を閉めてから、すっかり視界を奪われた玄関の端で和歌を唱える。
『八重葎 茂れる宿の さびしさに』
ビリッとした空気で刺してきたこの気配は、今までの影狼と段違いだ。一気に体は近づいたためもがなが武器を構える。だがその前にはもう銃口から弾が飛び出し、目の前に近づいてくる。倒れるように避けながら足を上げて体制を崩させようと思ったものの、空中にいたため逆に蹴りで返されてしまった。腹に直撃したことで立ち上がるのが遅れる。
先ほど噛まれたところがもう錆びそうになっていた銅線を回収し、もう一度発射する。やはり止められる姿勢に入られたが、今度は違う。ちょうど視界が塞がれたところで高く跳び、静かに短刀を取り出すと肩を持って背中めがけて刃先を向けた。一緒に持っていたワイヤーガンも肩にかかり、ようやくとらえることができた。
(よし、このまま……)
だが気が付くと、黒マントは顔をこちらに向けていた。それに加え、いつの間にか銅線の先端をしっかり握っている。短刀を床に落としながらも銅線の中央部分を持って互いに引っ張り合う。なかなか力が強く、一向に離す気配がないと思うと、あちらの銃口が視界の真ん中に来た。