第百六十四句
「本当に静かだ」
あまりに状況ともがなの表情が噛み合っていないため、葎はしばらく思考停止した。博士の声でようやく意識を戻すと、自分でも驚くような大声で話した。
「もっ、もがなくんが行ってくれるようです!」
『あ……うん、わかった』
あちらも少々戸惑っているようだが納得はしてくれたらしい。電話を切っため息を一つつくと、目の前のもがなの表情がみるみる暗くなった。
「すいません。混乱、させましたよね」
儚げな声に吸い込まれそうになりながらも首がもげそうなくらい横に振る。
「そんなことないよ!助かる!ありがとう!」
必死な様子に納得してくれたようなので、急いで葎も準備を始めた。エプロンを脱いで部屋に戻り、もろもろの準備と十分な気合を持っていく。姿見の部屋に移動していたもがなの姿を見ると、自分の頬を両手で軽く叩いて笑った。
「よし、行こう」
姿見を抜けるとそこには物悲しさを感じる夕暮れと哀愁を感じる古びた館があった。まだ暑くはあるが、トンボが多く秋を感じさせる。虫の鳴き声を聞きながら周りを見渡したが特に影狼の姿はなさそうだった。ふと、もがなが目の前にあった館をまじまじと見つめた。
何かあったのかと気になって近づくと、何か影が見えた。と思うと、もがなはすぐさま特殊な形をした銃を取り出した。だが、葎は肩を掴んでそれを止める。
「今はだめだ。少し古いとは言えど人が住んでいるかもしれないからね」
「っ……すいません」
銃をポケットへしまうと正面口であろう所に立って扉を叩いた。すると、ゆっくりと扉が開いて出てきたのは一人の僧だった。歳はあまりいっておらず、誠実そうだというのが第一印象だった。
「あの、どちら様でしょうか」
「すみません。私たちは今ここらの警備を行っている者です。最近何か変な事はありましたか?」
しばらく考え込んでいたが、ゆっくりと首を横に振られる。
「いいえ、何も。お役に立てず申し訳ございません」
「そんなことないですよ。ではまた」
扉を閉められたかと思うと、葎の表情は一瞬だけ変化していた。
「……何もなかったね!」
「はい、良かったです」
後ろを向くと、数十メートルは続く茂みがあった。その場でしゃがむと一番手前にあった雑草へ触れる。長く伸びた茎の先端に星のように葉が並んでいる、何とも不思議な形をした植物だ。
「ヤエムグラって言うんだよ。僕の名前と同じ植物」
その表情はいつもは見ない悲しげな表情をしていた。後ろでまとめられた髪が風で揺れるとともにヤエムグラたちもその方向へ揺らぐ。立ち上がって着物の煤を払うと前へ進む。足へ絡まる葉を気にせずに歩いていくとやがて茂みから抜け出した。特に何もなくあっという間な時間を過ごしたかともがなは思ったが、その途端、いきなり後ろから気配を感じた。
素早くポケットから銃を取り出して発射すると出てきたのは弾ではなく銅線だ。勢いをつけて飛んできたそれはその影を包み、あっという間に拘束する。やはり影狼だ。しっかりと縛ってから後ろから短刀を取り出し、頭を一突きする。小さく唸ってから銅線から抜けて灰になった。
残った線を回収してから葎の方を向くといつになく真剣な表情になっている。ずっと向こうを向いている目線を追うとその先には影狼の大群がおり、その場から一歩も動こうとしていなかった。
「もがな君」
「わかってます。この影狼は俺達から動かないと始まらない」
世界が静止画になったようだ。だがそれを拒んでくれるのは風になびくヤエムグラの大群。仕方なく、目を合わせて影狼のもとへ突っ走った。
ワイヤーガンから出た細い銅線の僅かなところに葎が乗ると、あっという間に目の前へ着く。こちらからも銃が取り出され、まるで撃っていないかと思うほどの小さな音で撃たれる。狙う位置などは考えずに乱射していくと、地面についた頃には影狼が倒れていた。