第十四句
「早く逃げろっ!」
月はとっさに目を閉じた。この距離では武器を存分に使えない。いっそのこと噛まれても仕方がないという気持ちだった。だが、何も起こらない。目を開けて最初に飛び込んできたのは、紅葉が持っているぬいぐるみ、黄葉だった。
「こっちが先だっ!」
いつの間にか紅葉が竹から降りて火縄銃を構えているではないか。多分、降りてきたときに黄葉を投げて注意を引くようにしたのだろう。影狼は月の存在を最初からなかったように紅葉へ鋭い牙を見せつけた。いつもなら小さな悲鳴を上げる紅葉だが、それに応えるように険しい表情をしている。
「ガルルルル……」
「もう、終わらせよう」
先に仕掛けたのは紅葉だった。胸を狙うが、当たり前のようによけられてしまう。いくつもの作業がある装填を慣れた手つきで終わらすと、近づいてくる影狼に負けないくらいの速さで正面に走り始めた。額が衝突するギリギリで勢いよくしゃがんで、影狼を飛び越えると同時に背後を狙う。すると、弾は背中の真ん中に当たった。両者足でブレーキをかけると、また睨み合った。
(そろそろ能力を発動したいな……でも成功する確率が少ない。うーん……)
紅葉は能力を発動させるか否か迷っているようだ。ふと、目に留まったものがあった。それは月のパーカーにあるポケットのふくらみだ。疑問を抱いたが、それはすぐに解決された。あれはきっと高嶺からもらった飴だろう。
「ごめん月君」
それだけ言い残すと、ポケットの中から素早く飴の入った革袋を取って何のためらいもなくすべて口に入れて嚙み砕いた。何とも言えない味が思い出され、涙が出てくる。
『奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の』
紅葉の句能力:本人が泣くと周囲の者も泣く
月の目から涙があふれてきた。理由はわからないが、とにかく悲しいと感じるのだ。隣にいる紅葉の真剣な表情を見て、さっきの高嶺の言葉の意味が分かった気がした。
(紅葉君は、人を助けるためなら自分を犠牲にできるんだ)
そう思ってまた、涙が出てきた。それは正面にいる影狼も同じだ。さっきの恐ろしい目つきはなくなり、どこか可愛らしさを感じるほどだ。普段の紅葉と影狼の中身が入れ替わったようにも思えた。それくらい今、紅葉は真剣な表情をしている。
「お前を……許さないっ!」
歯を食いしばりながらそういうと、力強く引き金を引いた。弾は揺るぐことなくまっすぐに影狼の頭を貫いた。
『声聞くときぞ 秋は悲しき』
月の涙がぴたりと止まると、紅葉はにこりと笑って月のほうを向いた。
「ごめんね、大きな声出しちゃって……」
「ううん、むしろこっちが謝りたいなぁ」
灰となって風に飛ばされていく影狼に近づくと、月は何かが目に留まった。その場にしゃがみ込むと観察し始めた。
「見て、紅葉君」
「どうしたの?」
「この影狼、歯が紫色だよ」
「……あ、本当だ。集中してたから全然気づかなかった」
二人は、これが何か話し合った。だが一向に答えが出ない。
「でも、今までの影狼はこんなことなかったよね?」
「うん、もしかしたら普通の影狼と何か違うのかも」
「確かに。帰ったら高嶺さんに相談してみよう」
二人が立ち上がると紅葉は突然大きく目を見開いた。一瞬何事かと思うとそのまま倒れた。その上には、鮮やかな紫色が付いた牙をむいた影狼――。そして肩には大きな噛み傷。状況を理解したとき、月は今まで出したことのないような悲鳴を上げていた。そんな月を気にも留めず、影狼は去っていった。
「早く追わないと……追わないとっ……!」
そういうばかりで体が一向に動かない。その時、反射的に月の口からこんな言葉が出た。
『天の原 ふりさけ見れば 春日なる』
月の句能力:人に自分の意識を移す