第百四十三句
「こうした方がよいだろう?」
姿見に入った瞬間、ねっとりとした空気が服と肌の間に入り込んだ。足元に水溜まりがあったようで、浅茅はスニーカーに水が入らないうちに急いで足を上げた。上品なブーツの音を鳴らしながらあはれがその前を歩く。こちらをまったく気にしていない様子なので、ただその背中を追いかけた。
無視の声が絶えない森の中でも優雅に扇子を顔に扇ぎながら進んでいく様から、ずいぶんと余裕があることがわかる。ふと立ち止まったかと思うと、この暗闇でもはっきり見えるほどの入道雲をに話し背景にして話し始めた。
「見て、新しい着物買ったんだ!」
「はぁ、そうなんですか」
子供のような無邪気さで話しかけてくる。薄い反応しかできなかったが、さらに言葉は加速していった。
「世の中には、価値があるものが数多存在する。その大半はお金で買えるものなんだ。だから、僕は贅沢したいときは贅沢しようと思ってるんだ」
(どうしよう。良いことを言ってるのかただの自慢話なのかがわからない)
これは予想以上に面倒な性格をしている。呆れながらも道中はその話に付き合った。
もう一度足を止めたのは、目の前に井戸が現れたときだった。思わず「あっ」という声が揃うほど、本当に突然現れたその井戸を見ると、武器を出して息を潜めた。浅茅は手が滑らないよう右手に手袋を着け、極めて簡素な直刀を出して左手を地面に付け、今にも走り出しそうな体勢になる。その後ろであはれが仁王立ちしながら二丁のピストルを井戸に向けた。
素早く、音を立てずに近づくとあはれと向い合わせになり、井戸の縁に乗っかりながら刃先が下に来るよう構えた。その時をじっと待つ。するといきなり黒い血が服に少しだけつき、刃が赤く染まった。引き上げると影狼がきれいに刺さっているではないか。上下に振って乱暴に落とすと次々と顔が出てきた。処理が大変なのでひとまず顔を踏みつけて井戸の中央に立った。
だがその後すぐに体が出てきて一気に井戸の中が溢れ返る。その衝撃で高く飛ばされると一回転して着地した。すぐさまあはれがピストルを連射して井戸の周りに灰の山をつくってゆく。浅茅も当たらないよう細心の注意を払いながら、反対側に目線のいっている影狼を背後から斬った。時々流れ弾をくらいながらも無心で倒した。
(自分の影の薄さがここで役立つとは……)
複雑な感情を抱えながら前を向くと、影狼と共に井戸も消えていた。一度集まって井戸の行方を追うことにしたが、どうもあはれは単独行動が苦手らしい。わがままな頼みだとは思ったが、やらずに陰口を叩かれるよりはいいだろう。
事前に博士からもらった小型無線が正常に機能するかを確認し、勘で怪しそうなところに進む。普通に歩きたいのだが、あはれが肩をつかんできょろきょろしているため落ち着かない。そこに目がいって仕方なかったので、思わず直刀を落としてしまった。あまり派手ではなかったが、地面と触れて音がした瞬間に肩にかかる力がいっそう強くなった。拾おうとしても体が反る一方だ。
「……あの、自分の刀が落ちただけですけど」
「あ、あぁ、そうだったか。早く拾ってくれ」
手をぱっと離されたため今度は前のめりになったが、なんとか刀を拾うことができた。立ち上がると浅茅はあはれの目をじっと見つめた。
「……どうしたんだ?」
「差し支えなければ答えていただきたいのですが……お化けとか嫌いですか?」
「なっ、なんでそう思ったんだ?」
姿見に入った直前では先頭をきっていたのに、今となっては浅茅の後ろにくっついていたり、物音がしたときの反応速度が早い。だが決してそれを認めてはいないようだった。話を聞くなり小走りで先頭を代わられると、さっきよりも小さく見える背中をただ眺めていた。
そんな二人には見えないくらいに遠い木の後ろでは、何個もの目が睨んでいた。