第百二十八句
「俺はもうだめだ」
しばらくそこら辺をうろついていたが、影狼も噂の井戸もない。ものやと分かれたところへ戻ろうとした。だが、近づいていく度に息が荒くなっていった。背中の痛みもあるだろう。だが、それ以上に『恐怖』という感情が勝っている。
自分のことではない。主同士であった出来事だ。だが、その状況を想像するほど足が重くなる。姿を見られるだけで何を思われるかわからない。ふと何かに足を引っ掛けて前のめりになり、転んだ。起きようとする前に勝手に口が動いて言葉を発していた。
「逃げたい……」
『はじめまして。……もしかして、君って僕に負けた歌?』
そんなことを言われたのは一体何日前だっただろうか。思い出したのは、初めてものやと話して数日たった頃の部屋の風景だった。まだ物が少なく、殺風景な部屋の隅でずっと泣いていたところに入ってきた者がいた。
破れたコートにつぎはぎのある帽子を被った少年はまだきの目の前に立って目線を合わせた。
『大丈夫?』
吸い込まれるような目を向けた少年の名は暁といった。彼に教えてもらい、自分がもう五日も部屋から出ていなかったことを知った。まるで死人のような顔をしながらあったことを全部話した。相槌を打ちながら聞いてくれるのが嬉しかった。
一通り話し終わった後、どこから出てきたのか飲み物を渡してくれた。腹は減っているが食べ物は喉に通りそうになかったのでちょうどよい。
『大変だったね。……じゃあ、君はどうしたい?』
『私、は……逃げたい。もう全部から逃げたい』
この弱音はさすがに否定されるだろう。ここに来てから何度も聞いた、「逃げたらダメだ」という言葉が胸に染み込んでいる。だが、言われたのは予想外のことだった。
『いいと思う』
『いいんですか!?』
自分でも驚くくらいの声が出た。暁は「逃」を空中に書くと右側を大きく囲った。
『漢字って面白いんだよ。ほら、逃げるの右側って、「兆」が使われているでしょ?俺は最初にこれを見たとき、「逃げた先には一兆個もの可能性がある」って意味かなって思ったの』
『可能性……?』
一般的にこの状況で「逃げる」というのは良くないイメージだ。それに、一兆個もの可能性があるというのだろうか。あまり顔に出さないようにはしていたが、暁は顔を見てフッと笑うと説明しだした。
『まだきの「逃げる」の終着点にあるのは孤独だと思う。でも、それ以外にもある』
『無理に関わらないようにする……とか?』
『そう、そんな感じ。考えようと思えば解決策なんて何個もできる。でも、その中で何を選ぶかは君次第だ』
暁が部屋を去ると、一気に部屋が虚しく感じられた。だが、心が軽くなった気がする。まだ残っていた飲み物を一気に飲み干すと、何個もの可能性を考え始めた。
最終的に下した判断は、極力問われたこと以外で話さないこと。トラブルは自分から生む可能性もあるからだ。
『大丈夫?』
暁の声がどこからか聞こえたような気がして、また心が軽くなった。背中を支えてくれている感覚がする。息を大きく吸って立ち上がると、まっすぐ前を見た。
「――なっ」
だが、その笑顔はすぐに消えてしまう。目の前にあの井戸があるではないか。近づいて覗き込むと、いきなり飛び出してきた影狼と額が衝突した。額を押さえながら再度顔を上げるともう背中以外の三方向で隊列を組まれていた。
近距離だと使いにくい武器なので距離を空けようと後ろを見ながら走るが隠れているものが木の上から垣間見えた。これでは動けない。とりあえず後ろのものを先に倒そうと弓を構えて木の上を睨むと、矢は大きな弧を描きながら上を目指した。さっきよりも距離が長く、多少スピードは遅れるものの威力はほぼ変わらない。
もう一匹へ向けて矢の準備をしていると後ろへ何匹かが飛び掛かってきたが、まだきは一切気づいていなかった。