第百十六句
「どこに行ってしまったんだろうね」
特別医務室から戻ると、パーカーのフードを浅く被って大笑いしている男性と宵がいた。二人に気づいて宵は手を振ったが、男性は笑いすぎてそれどころではなさそうだ。
「どうしたんですか……?」
「フフフ……あーおっかしい!聞いてくれよ!」
通称:かたみ
管理番号:042
主:清原元輔
かたみは腹を抱えながら笑い転げた。あまりに話が進まないので宵に聞く。
「今ね、かたみ君が『俺のペンどこか知ってますか?』って聞いてきたの」
かたみがいつも使っているペンは、確かに机の中央へぽつんとおいてある。
「でも僕はその時、洗い物をしてたからよく聞こえなくて……」
『かたみ君、そんなものないよ』
『何言ってるんすか!あれは俺の大事なもので……』
宵の方を向くと、ごま塩と大きく書かれた袋を持っているではないか。
『えっと、宵さん?何でごま塩持ってるんですか?』
『え?だってかたみ君が「オリオン座の胡麻ってどこにありますか?」って聞いてきたから』
ひどすぎる空耳が判明する前、ちゃんと一粒一粒を調べたらしい。これを素でやっているのが宵の面白さである。
二人で必死に笑いをこらえながら話を聞き終わると床にいきなり振動が来た。何が起こったのだと思い、どこが元かを探すとかたみの携帯からであった。深呼吸をして電話に出ると、その声は真剣になった。
「もしもーし」
『かたみ君、ごめんね』
「いや、俺は全然大丈夫ですよ」
博士に対してもこの対応。正直、玉はもう少し丁寧にしてほしいとは思うものの腕を組んで黙っていた。
「そんで、今回はどうしたんですか?」
『影狼が出たんだ』
その言葉は全員が聞いていた。目を見開いて驚いていたが特になくはと玉は声に出すほどだった。話が続く。
『玉君となくは君が帰ってきたばかりなのに、なんでこんなに早く……』
「同じ人に頼むわけにはいかないってことで、俺に電話してきたんですか」
言っている途中に宵と目線を合わせた。髪を耳の後ろにかけ、「ちゃんと聞いています」のポーズをとる。コクリとうなずいて顔を正面に戻した。
「わかりました。ここに宵さんがいるので、一緒に行っていいですか?」
『もちろんだよ。気を付けてね』
会話が終わり、再び宵の方を向いた。
「聞こえてましたか、宵さん」
「あぁ、ここで聞き間違いなんかしていられないよ」
姿見に向かう二人を見送ると、玉は顎に手を当てた。さっき倒したはずなのに、もう影狼が出現したというのか。あの井戸の原理はわかった。博士にも報告したので早速調べてくれていたのだろう。影狼を倒すだけでは駄目だ。
向かいにいるなくはも顎に手を置く。干飯を食べながらもその目は本気だ。きっと、同じことを考えているのだろうと思った。
「さて、行きましょう。かたみ」
「了解っ!」
姿見の奥には、風の少なくその暑さが肌にへばりつく熱帯夜が広がっていた。目の前にあった塀を飛び越えると中は都のようだった。大きな建物や華やかな装飾がたくさんある。人がいないかと思えるまでに静かだが、一つだけ灯りの付いているところがあった。よく耳を傾けると数人の男性たちが話していた。
(うーん、何を話しているかはわからんけど、これはお酒が入ってる感じだな)
「なんか話してるね。えっと……『海が鼻炎ですね』?」
「いや、ここに海ないし。大体なんですか海の鼻炎って!」
この漫才のような会話がふたりの恒例だ。塀の上で笑っているといきなり陶器が割れるような音がした。それと同時に男性の低い叫び声がした。顔を合わせると灯りの付いている部屋の御簾を開けた。かたみが薙刀を突き出し、宵は右手にロングライフルを持った。音を静かにさせるサプレッサー付きだ。
確かにそこには酔った男性たちがおり、数匹の影狼たちがいる。動きが止まったかと思うと影狼はこちらへ向かって来た。
「全員伏せろ!」
男性たちがその通りにすると、まず宵が影狼の頭と同じ高さに連射する。何回引き金を引かなくても連続で出るフルオート式だ。動揺したところでかたみが部屋の奥まで入りこみ、肩に担いでいた薙刀を正面に出した。遠心力で勝手に体の反対側に戻される。相当強い力を使ったのか、そのまま後ろにあった壁にも傷がついた。
一気に静かになったと思うとかたみの頭に軽いげんこつが当たった。
「こら、壁は壊しちゃいけませんよ」
「……すんません」