第百一句
「特別になりたい……」
春は自室で本を読んでいた。目が疲れたので一旦しおりを挟み、目を休める。
『春兄はさ、やりたいこととかないの?』
先ほどの心の言葉がフラッシュバックしてくる。自分のやりたいこと――、考えると難しい。自分は本当に、今の暮らしができればよい。だが、一瞬何かが横切った気がした。それはささやくように、他の人には決して聞こえないように近づいてくる。
『嘘だ。お前にはやりたいこと必ずある。それは――』
その声が聞こえなくなった時、首を勢い良く横に振ってからまた本を開いた。
そういえばそんなことがあったな、と、縁側でそう思った。あれから影狼たちは来ていない。当たり前だ。多分、今回の影狼たちの狙いは撰者たちだろう。自ら建物の護衛に回った自分に用はない。
ここにいて何もしないまま終わるのも罪悪感のあるので、いっその事手伝おうと思った。暗い森の中、自分の足音だけが聞こえる。
「主に、会いたかったな……」
ふと足を止め、口から出ていたのはその言葉だった。思わず口を塞ぐ。もう主は亡くなっている、それで認めたはずだったのに、なぜそんなことを今更言ってしまうのだろうか。動けなくなっていると背後から何かが刺さってくるぐらいの速さで近づいてきた。少し遅れを取りながらも刀身を出し、上半身だけをひねらせながらそれを止めた。
顔の目の前には、紫色の色素の染み込んだ歯が見えた。影狼は少し距離を取ってから真正面に向かって来る。狙いは目線からして肩だ。しゃがみ込んで低姿勢のまま進むと体を回転させて軽くブレーキをかけた。だが、その上からも仲間が出てきる。地面に着く前に斬ってしまおうと準備したが、一つ上の枝を噛んだため届かなかった。
あの言葉を言ってから調子が悪い。遅れて地に足を着かせたのは後ろに回り、目を向けようと思ったが正面からも来る。一旦深呼吸をしてから和歌をつぶやいた。
『ひさかたの 光にどけき 春の日に』
両方から向かってくる影狼にいつもの柔らかい笑みを見せた。今まで聞こえていた葉の揺れる音は静かになり、何よりいつもだったら一瞬で向かってくる影狼の動きが遅くなっている。
春の句能力:感情で時間の流れが変わる
雅に歩くほど落ち着きながら影狼に近づくと、大きく杖を背中までもっていく。斬られた影狼は、ゆっくり粒子となって葉の流れる方向に付いて行く。続いてもう一匹にも同じようにする。前に振ろうとしたその瞬間、またあの声が聞こえてきた。
「本当は主に会いたかったのだろう?」
いつの間にか春は腰を抜かしてその場に座り込んでいた。左の脛が痛む。一瞬の感情の乱れさえも能力は感知してくる。あの声のせいで余計な感情が入ってしまった。仕留め損ねた影狼は正面にいる。今度突進されたら動けなくなるだろう。
立ち上がって再び気持ちを落ち着かせると、再び止まっているように見える影狼のもとへ近づいていく。まだ『焦り』が残っているのでさっきよりも時間の流れは速くなってしまったが、何とかその腹に一突きできた。
『しづ心なく 花の散るらむ』
いきなり後ろから通過してきた風に驚きながらも、左足を見た。青あざがあるだけで動くことはできそうだ。
「お前にはやりたいことがある。それは――」
聞きなじみのある声が言ってくるのは、まさに自分がしたいことだった。
「自分の実力を見せつけ、人の上に立つことだ」
白菊は、躬恒と共に後ろから追いかけてくる影狼から逃げていた。いつもは遠距離で応戦しているので接近戦には無理があった。できるならば、心と暁と交流して手伝ってもらいたい。
「あ、白菊」
横から聞こえたその声を一瞬聞き流しそうになったが、それは間違いなく暁の声だ。何歩か下がると暁と心が小さく手を振っていた。後ろには忠岑と貫之がいる。
「貫之さん、見つけたんだな」
「あぁ、俺らにかかればすぐに見つけられるさ」
はっとして、さっきまで自分たちが走っていた方向を向いた。隠す気のない足音が向かってくる。ここで無駄話をしている場合ではない。すぐに本題を言うと、快く引き受けてくれた。
「三人は、白菊に付いて行って安全なところに隠れていてください」
「えっ、俺⁉」
まさかの指名に驚くと、二人は鋭い目で睨んできた。「手伝ってやっているんだからそれくらいはやれ」ということか。前で武器を構える二人の間には影狼が見える。白菊は急いで主たちを避難させた。