第九十九句
「弓張りの月ですね」
影狼が一向に出てこない。いつも休みなく動いている戦闘に比べたらとても楽なので白菊は逆に心配になった。自分の主が安全なのが一番だが、違和感が止まらない。暁と心は、春は大丈夫だろうか。考えれば考えるほど不安は高まった。
森を進んでいくと嫌な雰囲気が近づいてくる。躬恒はケロッとしているので、これは影狼を倒したことのなる人にしかわからない感覚なのだろう。前に立って備えていると、いきなり後ろから低く弱々しい悲鳴が聞こえた。間違いなく躬恒の声だ。振り返ると見えない何かに捕まって宙づり状態にされながら連れ去られていく姿があった。
(後ろだったか……!)
暗い雰囲気の方へ行くのを追いかけると、中心部であろう所に着いた。何とも雑に落下し、頭を抱えながら座った躬恒の周りには影狼が規則正しく囲っていた。この危険な状況でも新羅は周りを見て何かおかしいところを見つけた。
(ここには縦に並んだ跡?みたいなのがあるな。……心の銃口とまったく同じ形だ)
ということは、自分たちが来る前に心と暁がここで戦ったのだろう。そうだとしたら、この影狼たちはどこから出てきたのだろうか。見逃していた、そんなことはない。普段は計画性のある心がこんな無作為に撃つはずがない。そうだとしたら能力を使った可能性が高いだろう。
心の能力は達成できるまで解除できない仕組みになっている。影狼を倒す場合だったらおそらくここ全体に見える影狼を能力自体が感知してくれるだろう。それなら、見落とすはずがない。だが今はどうだろう。これならまるで、どこかから影狼が湧き出てきたようではないか。
考え事が終わり、前を向くと躬恒が足を押さえて苦しそうな表情をしていた。足を持たれたときにひねりでもしたのだろうか。早く倒さなければ。だが、ただでさえ躬恒が囲まれて近づけないのに影狼は何かの合図で白菊を中心部から追いやる形で並んだ。弓矢は遠距離の武器だ。接近戦となると準備に時間がかかる。
一度弓を担ぐようにして持ち、少し後ろに引いてから飛び越えようとした。少しでも一度に戦う数を減らし、遠距離からにしたかったからだ。勢いよく跳んだものの、下を見るといつの間にか影狼たちは、人に化けるときに見る粘土型になってうごめいている。白菊がその上に来た時、一斉に両手だけを形成した。なるべく体を縮こませているものの足首を掴まれる。引き込まれそうになったところを振りほどいて何とか着地した。
(危なかった。だが問題はここからだ)
躬恒の周りにいる影狼に背中を取られないよう、着地してすぐに横を向いた。
(多分、主の周りにいる影狼は俺が攻撃したら主を守るんじゃなくて人質にとるつもりだ)
先ほどいら菊が目の前に来たのに攻撃しなかったのはそのためだ。躬恒のことを人質に取り、何か下手なことをしたら噛んで影人にするつもりだろう。自分の主を気絶させるのは一番避けたい。
周りを見渡すと、顔を上げるほどに高い木があった。とても細く、矢を二、三本放てば倒れるくらいだ。矢を手に持ち、一気に二本を弓にあてる。短時間で強く引いて当たる前にまた正面へ戻ると、鈍い音が聞こえる。躬恒にはまだ何も起こっていないのを見ると最後のもう一本を放った。
綺麗に突き刺さり、静かに傾いてきた気に影狼は混乱した。急いで一匹が躬恒の後ろに回って首元へ口を開ける。だんだん近づいてきたかと思ったが、頭を強く押された。地べたにつけられた頭でもなんとか目を上にやると、鬼の形相をした白菊が頭を押さえていた。
頭は離されたが代わりに右足で腹を押さえられた。よく磨かれた矢じりが光っている。木が倒れてくる影が大きくなるのを見ながら、額に打たれた。
目の前に倒れてくる木に躬恒は恐怖を感じた。だんだん速度を増していくのに目をつむった。――だが、完全に倒れる音は横から聞こえた。その前に何かに引っ張られる感覚がしたような気がした。目を開けると息が切れている白菊が立っていた。その横には倒れて砂ぼこりをまとった木が見える。
「大丈夫、ですか?」
「あ、あぁ、君は?」
「俺は大丈夫です。今、足の応急処置をしますね」
懐から取り出したのは手拭いだ。四等分くらいにつなげながらちぎると、簡易包帯ができる。それを強く足に巻きつけた。慣れた手つきをしている。何とか歩けそうになった躬恒に、深刻そうな顔をした。
「すいません。俺がすぐ動かないせいで……」
「いいんだ」
「ですが、あの攻撃も応急処置です」
同時に木の方へ顔を向ける。砂ぼこりが晴れたところには、まだかすかに黒い影が残っていた。