第九十七句
「ごめんな。俺のせいだ」
本当だったらすぐに大声を出して気づかせているところだが、それをやってしまうと躬恒が混乱して今の状況よりももっと影狼に噛まれる可能性が高くなる。それは何としてでも避けたいのでここは気づいていないふりをした。
「あれ、何か落としましたよ」
「これは失敬。えっと……どこにでしょうか?」
自然な言い方に何の疑いもなく地面を見始めた躬恒に、しゃがまないと見えないのではないかという。言葉の通りに動いてくれたかと思うと、前足を伸ばした影狼に目を移して事前に矢をセットしておいた弓を構える。足所から強い力を使って目いっぱい引くと、額に刺さった。何事もなかったかのようにして笑顔で言った。
「すみません、勘違いだったようです」
「あぁ、そうでしたか。そういうことならば」
いくら状況を半分以上説明しているからと言って、影狼や自分たちの記憶が強く残ると博士の薬だけで対処しきれない。なるべく、特に影狼の姿を見せないように倒さなければと肝に銘じた。
影狼は心の撃った弾を素早く避け、移動する。心はだいぶ苦戦しているようだ。その様子を遠くから忠岑が見ていた。危険だからと離されたものの、人の本能のようなもので見ないわけにはいかない。静寂を切る見慣れない武器に跳んだり跳ねたりで避ける妖に、思わず釘付けになった。
ふと、もう一人の少年がいないことに気づく。だいぶ服を繕っているので、それほど裕福な家庭ではなかったのだろうかとある木ながら考えていた。少し共感できる。
また心の方に目線を戻すと、影狼とやらの上に何か布のようなものが見えた。ひらひらと舞い降りるそれは、今まさに考えていた少年の羽織っていたものだった。覆いかぶさって視界を塞がれたと思うと、同じくらいの場所から一瞬にして何かが落ちてきた。最初は何かと思ったが、影狼の手前まで来た時にそれが人だということに気が付いた。それは腹を下にして落ちてきたのを空中で左向きに回転する。羽織の中から赤黒い血が見えた。
そのまま少し左に着地すると、ため息をつきながら羽織を影狼からぶんどって着た。ようやくその姿が見えた。どこからか羽織を落とし、影狼を倒したのはあの少年だったのだ。異国のものだろうか。鋭く、面白いくらいに湾曲している短剣を持っている。
「なぁ心!お前もう着なくなった上着あるか?」
「いい加減自分で買えばいいじゃないか」
「そんなことに金を使いたくないんだよ」
困ったものだ。暁は大の節約家であり、服のほとんどは他の百人一魂からもらっている。今着ているコートも、前の戦いで影狼に裾を破かれたときは直す――ではなく不器用なため不自然ではないように同じくらいの大きさの切れ込みを何個も入れた。視界を奪うために使ったが、それごと切ってしまったため背中には大きく切られた跡が残っていて下に着ているワイシャツとサスペンダーが見える。これは上下で真っ二つになるのも時間の問題だ。
楽しそうに話す二人のもとへ駆け寄ろうと思って忠岑は何歩か足を前へ進める。ちょうど、二人がいる開けた場所への入り口に着いたころだろうか。急に足が動かなくなった。足だけではない。頭も、手も、体全体が動かない。何人にも掴まれているような感覚がした。自分でもわかるくらいに震えながら、口を動かした。
「たっ、助けて!」
何とか届いたようで、真っ青な顔をした暁が飛び出した。それと同時にありえないほどの速さで後ろに引っ張られていった。必死にそれを追いかける暁の横で心が叫んだ。
「忠岑さん!そのまま連れ去られてください!」
「「……はぁっ⁉」」
はっきりと聞こえた言葉に、忠岑と暁は同時に驚いた。
「はぁ⁉お前馬鹿かよ、俺の主殺す気か!」
「違うよ。よく考えて見ろ、このまま付いて行ったら俺の主の場所もわかるかもしれない。少々手間はかかるが、それなら二人同時に助けられる」
信用はできなかったが、今この戦いにいる者たちは全員が自分の主優先だ。それならばこんなことを言い出すのも無理はないだろう。二人は冷静に忠岑の行く方を追いかけた。