第25話 そのカフェとおわかれ
僕が、会社の上司からあのメッセージを受け取ってから、数日が経過していた。
メッセージとは、上司が僕を米国本社のプロジェクトに推薦したというものだ。
そして、「休職期間明けにすぐ出国できるように準備しておくように」と。
僕は、そのメッセージにも返事ができずにいた。
僕は悩んでいた。
泉天さんに言うべきか?
泉天さんに何て伝えようか?
こんなこと・・・。
迷うことは無いはずなのに・・・。
僕は会社を辞めて泉天さんとカフェをやって行くことを決めたはずじゃないか。
なのに、何でこうも心が惑うのだろう?
「○○君、○○君?」
僕は、ボーっとしていたのだろう。
「あ、はい!」
カフェも閉店間際で、お客様もいなくなり、シンクで食器を洗い、拭いていた時だ。
「体調が悪いのですか?」
泉天さんが、額を僕の額に寄せて来た。
「あ、熱は無いので、大丈夫ですから」
僕は、慌てて状態をそらし、離れる。
「そうですか~?」
「は、はい」
「ならいいですけど。で、ですね。また、夫のノートから新メニューを開発したいと思います」
「え?新メニューですか?」
僕は、突然のことに少し驚いた。
「はい」
泉天さんはニッコリとご主人のノートを取り出した。
「へー、どんなのですか?」
「ジャジャーン!これです」
泉天さんがノートの該当ページを開いた。
またしても『妖精のパンケーキ』と同じように、注釈とイメージ図しかないものだった。
「うわあ、またこれはレシピ作りからになりますね」
「はい。これをプリマヴェーラの新たな看板商品にしたいと思いま~す。ウフフフ」
僕は、泉天さんが楽しそうに微笑みながら話す姿を見て思った。
僕は、何を迷っていたのだろうか?
この人の傍にいて、支えていく。
そう誓ったではないか!
自分が悩んでいたことが、馬鹿らしく思え、迷いが消えて行く。
「わかりました。僕も新メニュー作り頑張ります!」
しかし、泉天さんは思いもよらないことを言ったのだ。
「ダメでーす。○○君は、会社に戻ってくださーい」
「え?」
「何かあったのでしょ?」
「いえ、そんな、何も、何もないですよ」
僕は、泉天さんに余計な心配をかけたくないので、作り笑いをしながらそう言った。
「○○君、正直に言って欲しいのよ」
泉天さんが、僕の手を握る。
その表情は、とても真剣なものだった。
「実は・・・」
僕は、これには勝てず、正直に上司からアメリカ行きの辞令を出されたことを告げた。
でも、断り、会社に退職願いを提出するつもりであると泉天さんに告げた。
「ですので、心配しなくて大丈夫ですから」
僕は、泉天さんに伝えることができて少しスッキリした。
うん、これでいいんだ。
しかし。
「○○君、それは、是非受けるべきですねえ」
「え、ええ?泉天さん・・・」
僕は、驚いて泉天さんを見る。
「○○君は、本当は行きたくてしょうがいないと、顔に描いてありますよう」
泉天さんは、微笑みながら優しくそう言った。
僕は慌てて、自分の顔を触る。
「そ、そんなこと無いですよ!僕は泉天さんと居たいんです」
「ありがとう、○○君。とてもうれしい。私も○○君とずっと居たいですよう」
ここで、泉天さんは一呼吸置いた。
「でもですねえ、○○君には、今やりたいことをやって欲しいんです。夫がそうしたように。プリマヴェーラは、その後でも大丈夫。悔いのないように思いっきり仕事をしてきてください。私はここで待っています。この新メニューも、完成させておきますからあ、○○君が戻ってきたら一緒にお店に出しましょうねえ。ウフフフフフ・・・」
僕は、泉天さんの優しさに感じてしまい、自然と抱き寄せてしまう。
「○○君、苦しいですよう」
僕の肩が震え、涙が零れてきた。
「悔いの無いようにしてきてくださいねえ。私、待っていますから」
「泉天さん、泉天さん、泉天さん・・・」
泉天さんは、いつまでも僕の背中を優しく撫でてくれた。
僕はこの日、上司にアメリカに行く決心を伝えた。
すぐに上司から、●月●日に出社するよう連絡が送られてきた。
そして、出社日から2週間後には、アメリカに行くスケジュールも添えられていた。
それから2日が経過した。
常連のお客様には、自分の口から言わなければならないと僕は思っていた。
僕は昼にやって来た関さんと近藤さんにこのことを告げた。
「え?○○君、東京に戻っちゃうの?」
関さんと近藤さんは、とても驚いたようだ。
当然だろう。泉天さんと付き合うことになったと告げてから、そんなに経過していない。
僕の裏切りではないかと思われても仕方ないのだ。
「すいません、突然のことで。一度東京の会社に戻り、すぐにアメリカに行くことになりました」
「アメリカ?また何でだよ?カフェを泉天ちゃんとやって行くんじゃなかったのか?」
関さんと近藤さんの視線は厳しいものだ。
当然だ。
「はい。それは今も変わりません」
「じゃあ、何でだよ?」
「アメリカでのプロジェクトがあって、前々から希望していたんです。今の会社に入社したのもそれがあったからなんです。それが叶うこの機会を逃したくなくて・・・。」
自分の我が儘だと思い、言葉がつまった。
「期間は1年~2年です。でも、アメリカでのプロジェクトを終えたら、僕は会社を辞めて、本当に泉天さんと一緒にプリマヴェーラをやっていきます」
僕は、真剣に頭を下げた。
関さんと近藤さんには勝手な言い分にしか聞こえなくて当然だ。
「泉天ちゃんはそれでいいのか?○○君が行ってもいいのかよ?」
「私が、そうして欲しいと言ったんですよ~。○○君には、今はやりたいことをやって欲しいから。カフェはいつでもできますからねえ。私が待てばいいだけのことですから。その分戻ったら、いっぱい頑張って貰おうかなあ、と。ウフフフ」
泉天さんは、僕に少し意地悪な視線を送る。
「はい。頑張ります。絶対泉天さんを支えます」
「そうかよ。お熱いねえ。わかった。俺等も○○君を信じるぜ。まあ、任せな。俺等が泉天ちゃんを、変な奴が近づかないように看ててやるからよ」
カランカラン!
お店のドアが開くと、イケメン髙橋さんが颯爽とやって来た。
「うわ!噂をすれば、さっそく変な奴がやって来た」
関さんが露骨に嫌な顔をする。
「やあ、泉天、今日もきれいだね。女神のようなその笑顔が見れてうれしいよ」
そう言いながら、髙橋さんは、関さんのことなど見えないかのように横の空いたカウンター席に腰かけた。
「言い過ぎです。でも、ありがとうございます」
「こんな時に来るなよ。大事な話をしてんだからよ。空気を読めよ」
関さんが、髙橋さんに背中を向けて不機嫌そうに言う。
「ほう、大事な話か?それは、興味があるね。是非聞こうじゃないか」
イケメン髙橋さんは、関さんの態度は無視し、流し目のイケメンスマイルで応えた。
「お前には関係ねえよ」
今度は、関さんは、僕の方を向いて、話す必要は無い、という風に首を振る。
僕は、泉天さんの方を向くと、泉天さんが頷いた。
僕も頷く。
「あの、高橋さん」
「髙橋だ」
もう!
話し始めから、腰を折らないで欲しい!と思ったが、僕は続けた。
「う、ううん。髙橋さん。大変言いにくいのですが、僕、近いうちに一度ここを離れます」
「うん?どういうことだい?君は、泉天の傍にいると言っただろう」
髙橋さんの眼が鋭く細くなる。
実は。
髙橋さんは僕が胴上げされた場にはいなかったが、あの後髙橋さんにも泉天さんと付き合うことになったことを告げていた。
「はい。それはその通りなのですが・・・」
僕は、髙橋さんの眼力に圧されるが、ここは耐えないといけない。
「一度会社に戻ります。1、2年になると思いますがアメリカでのプロジェクトに参加するためです。これは、どうしてもやりたかった仕事なんです」
髙橋さんは、黙って聴いていた。
「泉天さんを傍で支えると言っておきながら、すぐこんなことを言うのは勝手なのはわかっています。でも、今しかないから・・・」
僕は、ここで言葉が詰まってしまった。
「で、泉天は、どうなの?」
「私が、行って欲しいと言ったんですよお」
泉天さんが優しく言ってくれる。
「ふーん、そうか。なら、いいんじゃないか。僕もビジネスマンだから、チャンスはものにするべきだと思うからね」
「高橋さん・・・」
「髙橋だ」
髙橋さんは、斜め10度の流し目で泉天さんの方を見てフっと笑う。
「まあ、でも、ビジネスにリスクはつきものだということは、承知しておくことだ、○○君。君がアメリカに行っている間に泉天が心変わりしても文句は言えないぞ。そう、この僕にね」
キラッ!
ここで、髙橋さんは、渾身のイケメンスマイルを泉天さんに向けた。
「しませんよお」
泉天さんは、天然のニッコリスマイルで応じた。
イケメンスマイルは敢え無く玉砕した。
髙橋さんは、これにめげず立ち上がり、カウンター越しに僕の両肩を掴んだ。
「○○君、安心したまえ。泉天のことは私に任せてくれていいぞ。2年でも、3年でも5年でも10年でもアメリカにいるといい」
「この野郎!やはり、それが本音じゃねえかよ!」
関さんと近藤さんのヤジが飛ぶ。
「何なら、一生帰って来なくてもいいぞ。泉天のことは、僕に任せてくれ」
髙橋さんの眼が充血していて怖い!
この人は、本気だ!両腕に力が入り、両肩が痛い。
ここは、僕も本気で行かないとダメだ!
「あ、いえ、1、2年で必ず帰ってきます。帰ってきたら、泉天さんを全力で支えます!」
「いやいや、遠慮することは無いぞ。泉天の傍には私がいるから」
「遠慮します」
「いやいや」」
「遠慮します」
「いやいや」
「・・・・」
「・・・・」
そんなコントのようなやり取りはあったものの、常連のお客様にも伝えることができ、僕がプリマヴェーラを去る日がやってきた。
それは、9月も終わりに近づいた頃。
高原のこの辺りでは、風が夏の終わりを感じさせた。
その日はプリマヴェーラが休みの日曜日だった。
午後一番の電車で東京に戻る予定で、最寄りの『緑ノ里駅』まで、車で泉天さんが送ってくれた。
切符を買い、ホームで電車を待っている間、僕と泉天さんはあまり話さずにいた。
前日に、色々話すこともしたし、お互いの想いも確認できていたから、言葉にせずとも好かったのだと思う。
10分位すると、ガタンゴトンと懐かしい音を立てレトロな電車がやって来た。
「○○君、気を付けて行って来てくださいねえ」
「はい」
僕は、泉天さんを抱き寄せて、泉天さんの耳元に囁いた。
「早く成果を出して、必ず戻って来ますから」
「うん」
「寂しいけれど、それまで待っていてください」
「うん」
「戻ったら、今度は僕が泉天さんを支えますからね」
「うん」
そして、軽く口づけを交わし、僕は電車に乗った。
乗った電車は空いていて、ホーム側の泉天さんが立っている辺りの席に僕は腰かけた。
ホームで見送る泉天さんの表情は少し悲しげに見えたが、電車の発車のベルが鳴ると、微笑みに変わった。
その微笑みは、彼女の真のやさしさを表していた。
「・・・・・」
電車が動き始めると、泉天さんは、微笑みながら口を動かしたのだ。
「え?」
でも、窓が閉まっていたので、僕にはその言葉が何かわからなかった。
僕は、窓を開けて確認しようとしたが、電車は、泉天さんからドンドン離れて行く。
僕は、窓を開け、少し顔を出し、遠くなっていく泉天さんを見た。
大きく手を振っている泉天さんが見えた。
そして、ドンドン小さくなり、見えなくなった。
僕の両目から自然と涙が流れて来た。
僕は、とても大事なものを残して行くのだと、車窓から見えるこの美しい『緑ノ里』の山並みの景色を見ながら、実感していた。
そして、僕のこの決断は正しかったのだろうか、と一抹の不安に感じていた。




