愛のかたち
木漏れ日の差し込む森の中を、一頭の白馬が全力で駆けていた。
その馬の背には、まだ幼さの残る一組の男女が体を寄せ合うようにして乗っていた。
手綱を操る少年は真剣な表情で、黒髪を髪になびかせながら何度も後ろを振り返っており、その腕に大切に抱えられている少女は無邪気な笑い声をあげている。
やがて森の出口が見えかけた辺りで、少年が手綱を引いて馬を止めた。
「……ここまで来れば大丈夫」
追手が来ないことを確認した少年が馬から降り、そして少女を馬から降ろした。
「オリバー、よく頑張ってくれた。ありがとう」
少年がたてがみを撫でながら馬の首に頬ずりをすると、馬がぶるるるっと鼻を鳴らした。
足元の草を食べ始めた馬をそこに残して、少年は少女に向き直った。
「……マリアンヌお嬢様。勝手にこんなことをしてすみません。でも、俺、……お嬢様が婚約するなんて我慢出来なかったんです」
その場にしゃがみ込んで花を摘んでいたマリアンヌは、不思議そうに目をぱちぱちと瞬かせながら、その少年アベルを見上げた。
「わたくしが、婚約?」
「俺、旦那様と奥様が話をしているのを聞いてしまったんです。どこかの公爵様とお嬢様の婚約が決まったって。それで俺、居ても立ってもいられなくなって。だって、お嬢様は俺と結婚してくれるんですよね!? 俺のお嫁さんになってくれるんですよね!? 約束しましたよね!?」
アベルはマリアンヌの両手を取って、悲痛な声をあげた。
「このままお屋敷にいたら、俺とお嬢様はきっと旦那様達に引き裂かれてしまう。そんなのは嫌だ! だから俺、お嬢様と二人で逃げようと思って!」
アベルは強く握っていたマリアンヌの手に口づけた。
「お嬢様、きっと幸せにしますから、一緒に逃げてください。俺のお嫁さんになって下さい」
無言でアベルの黒い瞳を見ていたマリアンヌが、突然ぷっと吹き出した。
そして、まるで鈴が鳴るような可愛らしい声をあげて笑い出し、その様子をアベルは唖然とした表情で見ていた。
「……お嬢様?」
目尻から流れる涙を指で拭いながら、マリアンヌは面白くてたまらないという顔でアベルを見上げた。
「わたくしがお前のお嫁さんですって? ああ、可笑しい。お前はただの馬番の息子じゃないの。わたくしと結婚なんて出来るはずが無いでしょう?」
困惑したように瞳を揺らしながらアベルがマリアンヌを見る。
「でも、お嬢様は、俺のことが好きだって。お嫁さんになってくれるって」
「そんなこと言ったかしら? 覚えていないわ」
無邪気に笑いながら肩を竦めるマリアンヌを見るアベルの瞳に、みるみる絶望の影が落ちていく。顔を強張らせながら、アベルは声を絞り出した。
「……俺のことを、からかったんですか?」
「勘違いしないで。本当に覚えていないのよ」
マリアンヌが手に持っていた摘んだ花を、ぽいっと投げ捨てた。
「ねえ、早く帰りましょう? もうすぐおやつの時間よ。今日はわたくしの大好きなブリオッシュなの。遅れたくないわ」
うつむいて唇を噛んでいたアベルは無言のまま、近くで草を食べていた白馬の手綱を握り、その背に飛び乗った。そしてマリアンヌを自分の前に乗せると、馬の腹を蹴って走らせた。
そうして二人は来た道を戻っていった。
一年後、マリアンヌは十歳年上のアーレンベルク公爵と結婚した。
マリアンヌの夫の領地であるアーレンベルク領は、水害の多い地域だった。
領地の中心を流れる大河が毎年のように氾濫して、川の両側の畑や町を水没させて甚大な被害を引き起こしていた。
代々のアーレンベルク領主は大規模な工事を行い堤防を築いていたが、近年は水害の規模が酷く、マリアンヌの夫は水害対策に追われて領地を離れることが出来ずにいた。
都育ちのマリアンヌは、領地に行っても自分に出来ることは無いからと、夫と離れて都にあるアーレンベルク公爵邸で暮らしていた。
結婚して既に五年経っていたが、いまだに子供はいなかった。
たまに社交界に顔を出しても、他の婦人方の話題は子供や夫のことばかりで、その会話に興味の無いマリアンヌは次第に屋敷に籠るようになっていた。
「……退屈ね」
ある夜、マリアンヌは鏡台に向かいながら溜息を吐いた。
目の前の鏡に映る自分は、若さに溢れて輝くように美しかった。
波打つような豊かな金髪に淡い水色の瞳。
ほんのりと紅潮した薔薇色の頬に濡れた赤い唇。
滑らかな白い肌。
こんなにも美しいのに、夫は自分に見向きもせず、領地から出て来ない。
マリアンヌにはそれが不満だった。
結婚して以降、夫と過ごしたのは数える程しかない。
丁重に扱ってくれるけれど、それだけ。
甘い言葉を囁くことも、熱い瞳で自分を見つめることも無い。
「きっとあの人はわたくしのことを愛していないのよ。もしも愛していたら、わたくしにこんな寂しい思いはさせないはずよ。そうよ、もしわたくしのことを本当に愛していたら……」
夫に対する恨み言を言うマリアンヌの脳裏に、かつて受けた求婚の場面が鮮やかに蘇って来た。
狂おしい程の熱い眼差しで自分を見つめていた少年。強く口づけられた手には、あの時の少年の熱がいまだに残っているように感じられた。
「……アベル……、アベル。ああ、そうよ。きっとあれが本当の愛。真実の愛だったのだわ」
熱に浮かされたようにマリアンヌが椅子から立ちあがった。
「彼は心からわたくしを愛していた。真実の愛だったのに、わたくしは幼過ぎて分からなかったのよ。今なら分かるわ。アベル、わたくしもあなたを愛している。愛しているわ」
マリアンヌの頭の中は、熱く自分を見つめるアベルの黒い瞳で埋め尽くされた。これほどまでに強く思われていると思うと、それだけで体が熱く震えるのを感じた。
「真実の愛を取り戻さなければ。……ああ、でも、どうしたらいいの? 」
今すぐにでもアベルに会いたい。会いたくてたまらない。
どうしたら彼に会えるのか、マリアンヌは必死に考えを巡らせた。
「……そうだわ、お父様に手紙を書くわ。アベルを寄こしてくださいって。そうよ、オリバーの調教の為にアベルをこちらへ寄こしてくださいって、お父様にお願いすればいいのよ」
マリアンヌが父であるハッツフェルト伯爵に手紙を送って数日後、アベルがアーレンベルク公爵邸に来た。
侍女からそれを知らされたマリアンヌは、はやる心を抑えながら一人でアベルが待つ厩舎へ行った。
アベルに会うのは、自分が結婚して以来初めて、五年振りだった。
今は一人前の馬番として実家のハッツフェルト伯爵家で働いているアベルが、どんな風に成長しているのだろうかと思うと、マリアンヌの胸は自然と高鳴ってしまっていた。
「わたくしの、真実の愛、……アベル」
厩舎の入り口からそっと中を覗いてみると、愛馬オリバーのたてがみを撫でている長身の若い男がいた。
艶のある黒髪に、日焼けした肌。
まくったシャツの袖からは筋肉質な腕が覗いている。
後姿からでも分かる広い肩幅にしなやかな長い脚。
匂い立つようなその肉体美に誘われて、マリアンヌはふらふらと厩舎へ入り、男の背中に抱きついた。
「アベル」
いきなり背後から抱きつかれたアベルが、びくっと身を固くして、そのまま首を後ろに向けた。
「……マリアンヌお嬢様」
首だけを後ろに向けて自分を見ているアベルと視線を合わせたマリアンヌは、筋肉で盛り上がった背中にシャツの上から口づけて、前に回している両腕に力を入れた。
「会いたかったわ、アベル」
アベルは困惑した表情のまま、マリアンヌにされるがままになっていた。
しばらくしてマリアンヌが腕を解き、アベルの正面に回り、その顔を見上げた。
最後に会った時は、まだ少年らしさが残っていたアベルの顔は、精悍で凛々しい大人の男になっていた。
彫りの深い顔立ちに、太く真っ直ぐな眉。
無駄な肉の無い頬に、引き締まった唇。
身震いのするその男っぷりに、思わずマリアンヌの頬が緩む。
「……素敵になったわね、アベル」
驚いたように自分を見ているアベルの胸に触れながら、マリアンヌがアベルの黒い瞳を見上げた。
「まだ、わたくしを愛している?」
アベルが息を呑んで、慌ててマリアンヌから目を逸らした。
「忘れられるはずが無いわ。そうよね? わたくしを愛しているでしょう?」
マリアンヌが両手を伸ばして、アベルの顔を挟み、自分の方へ向けた。
「言いなさい、アベル。わたくしを愛していると」
苦しそうな表情で眉根を寄せたアベルが、絞り出すような声をあげる。
「……また、俺をからかうつもりですか?」
「いいえ、違うわ! あの時わたくしはまだ子供だったのよ。今なら分かる。お前を愛しているの。嘘じゃないわ。本当よ、真実の愛なの」
アベルは自分の胸にすがりつくマリアンヌに戸惑い、その瞳を揺らしていた。
「愛しているわ」
マリアンヌがアベルの首に手を回して、その唇を自分の唇で塞いだ。
目を見開くアベルを気に留めることなく、マリアンヌはさらに深く唇を重ねる。
「愛しているの」
「……本当に?」
その真意を窺うように尋ねるアベルに、マリアンヌは微笑んだ。
「お前のお嫁さんになるわ」
アベルは呆然として、信じられないという様子で小さく顔を横に振った。
そんなアベルの瞳を覗き込んだまま、マリアンヌが囁いた。
「抱いて」
その瞬間、アベルがマリアンヌの体が折れそうなほど強く彼女を抱きしめた。
「……マリアンヌ! 愛してる! ずっと好きだった! 忘れられる訳がない!」
アベルはマリアンヌの体を抱きしめたまま、その唇を貪るように激しく口づけた。マリアンヌもアベルの背中に手を回してそれに応える。
熱に浮かされたように唇を重ねながら、二人は山積みになった藁の上に倒れこんだ。やがて厩舎の中にマリアンヌの悦びの声が響き渡る。
「アベル! アベル!」
二人はその後も人払いをした厩舎で逢瀬を重ねた。
アベルは、そのままアーレンベルク公爵邸に残り、ハッツフェルト家には戻らなかった。
マリアンヌとアベルの仲は、すぐにアーレンベルク公爵家の使用人達の間に知れ渡った。
人払いをしていようとその声は厩舎から漏れ聞こえており、使用人達の噂話の的になっていた。
けれど、それを領地にいるアーレンベルク公爵に報告しようとする者はいなかった。火の粉が自分にかかるのを恐れて、誰も火中の栗を拾いたくなかったのだ。
そうしてマリアンヌとアベルは、皆に知られながらも邪魔されることなく逢瀬を続けていた。
ある日、アベルがいつものように厩舎でマリアンヌを待ちながら彼女の愛馬オリバーの世話をしていると、小さな足音が聞こえてきた。
愛しいマリアンヌが来たのだと思わず笑顔が零れるアベルの前に現れたのは、マリアンヌではなく、アーレンベルク公爵の妹フリーデリーケだった。
明るい茶色の髪を高く束ねたフリーデリーケは、乗馬服を着ていた。
ちらりとアベルの傍らのオリバーに視線をやった彼女は、ぶっきらぼうにアベルに言葉を投げた。
「今から遠乗りに行くわ。その馬を連れてきて」
それだけ言って身を翻したフリーデリーケに、アベルが返事を返した。
「これは奥様の馬です。遠乗りに行くなら、他の馬にしてください」
アベルの言葉にキッと片眉を吊り上げたフリーデリーケが、手に持っていた鞭を軽くしならせた。
「使用人のくせに、わたくしに逆らう気?」
「私はあなたの使用人ではありません。私がお仕えしているのはマリアンヌ奥様です」
表情を変えずに淡々と答えるアベルにかっとなったフリーデリーケは、つかつかと彼のもとへ歩いて行くと、手にしていた鞭を振り上げた。
「生意気な!」
鞭を振り下ろしてアベルを殴りつけようとするフリーデリーケの腕をアベルが掴んだ。
それに逆上したフリーデリーケが、意地でもアベルを鞭で殴りつけようとその腕を動かそうとするが、男のアベルの力には敵わなかった。平然と自分の腕を押さえつけて、そのうえ微かに笑っている見知らぬ若い男に、フリーデリーケは怒りで顔を赤くしながら手先で鞭を振り回した。
そしてその目の前でちらちら動き回る鞭に、オリバーが反応した。
突然いなないたかと思うと、オリバーは後ろ足で大きく立ち上がった。
後ろ足で立ち上がったオリバーの体の大きさに恐怖を感じて身動きが取れなくなったフリーデリーケの前に、オリバーの前足が襲い掛かる。
目の前に迫るオリバーの前足に、フリーデリーケは震えながら強く目を閉じた。そして彼女の体が、強い力に引っ張られて、倒れながら回転した。
やがて、恐怖で歯をがちがちと震わせながら、フリーデリーケが目を開けた。
すると鼻が触れそうなほど近くに、アベルの日に焼けた顔があった。
濡れたような黒い瞳が、心配そうにフリーデリーケを見ている。
フリーデリーケはアベルの体の上に乗っていた。
オリバーの前足で蹴られそうになっていたフリーデリーケを、アベルが庇い、助けたのだった。
「大丈夫か?」
アベルの逞しい体の上で、筋肉質なその腕に抱きかかえられて、フリーデリーケは夢心地でその声を聞いていた。
顔を赤らめたまま何も答えないフリーデリーケを不思議に思いながら、アベルはその体を起こした。そして、ぼんやりと呆けたような顔で自分を見ているフリーデリーケの体を支えて立たせた。
フリーデリーケはその場に立ち尽くして、うっとりと蕩けるような眼差しで、オリバーをあやすアベルを見ていた。
それからというものフリーデリーケは時々、用事を作って厩舎を訪れるようになった。
侍女に、厩舎へは行かない方がいいと何度か言われたが、その訳を訪ねても曖昧な返事しか返って来なかったので、フリーデリーケは気にせずにいた。
ドレスが汚れるとか、馬の臭いがつくとか、きっとそんなことだろうと彼女は高を括っていた。
厩舎へ行けばアベルに会える。あの凛々しくて逞しい男に。
そう思うと、自然とフリーデリーケの胸は高鳴り、足取りは軽くなった。
「そうだわ、この前生まれたばかりの子馬をアベルに育ててもらったらどうかしら。わたくしの為の馬をアベルに調教してもらえば、それだけ一緒にいられる時間が増えるかもしれないわ」
少しでもアベルと過ごす時間が欲しいフリーデリーケは、妙案を胸に厩舎へ向かっていた。
「……アベル? いるの?」
そろそろ日が暮れようとする薄暗い中、厩舎には灯りが点いていなかった。
入り口で立ち止まったフリーデリーケが、中を覗き込みながら声をかけた。
「きゃっ」
女の声が聞こえた気がした。
フリーデリーケが不審に思いながら目を凝らしていると、暗闇の向こうからアベルが姿を現した。彼は上半身裸で、何故か顔が上気していて、その黒髪には小さな藁がたくさんついていた。
「……アベル? ……どうしたの? その格好」
「何でもない。急にどうした」
まるで背後に見られたくない物でもあるのか、アベルがフリーデリーケに覆いかぶさるようにして彼女の視界を塞いだ。
「……後ろに、何かあるの?」
嫌な胸騒ぎを感じながらフリーデリーケが、アベルの体の横から後ろを覗こうとすると、いきなりアベルがフリーデリーケの顔を剥き出しの自分の胸に押し付けた。
「何もない」
アベルの逞しい胸に顔を押し付けられて、フリーデリーケは顔を真っ赤にしながらときめいていた。けれどそんな彼女の耳に、誰かが足早にそこから逃げ出すような足音が聞こえてきた。
一瞬で血の気が引いたフリーデリーケが、アベルの腕を振りほどいてその後ろ姿を見ようとするが、アベルが力づくで彼女の頭を押さえつけて離さない。
やがて足音は遠ざかり、消えた。
アベルが腕を解くと、フリーデリーケは目に涙を溜めていた。
「……女と、一緒にいたのね」
アベルは何も答えなかった。
フリーデリーケはそんなアベルを目に涙を浮かべたまま睨みつけた。
「どこの女なの!? 名前を言いなさい!」
アベルは近くに置いてあったシャツをぱたぱたとはたいて、ついていた小さな藁を落とした。
「……あなたには関係ないことだ」
「あるわ!」
「どんな?」
冷たい目で自分を見下ろすアベルに、フリーデリーケは開きかけた口を閉じた。
アベルの態度から、自分に対する気持ちなど微塵も無いことが身に沁みて伝わってくる。
フリーデリーケは溢れてくる涙を押さえられなかった。
アベルは黙り込んだフリーデリーケをその場に残し、厩舎の片づけを始めた。そんなアベルの後姿を見ていたフリーデリーケは、やがて泣きながら厩舎を出て行った。
フリーデリーケは、アベルが自分以外の女に触れているかと思うと、どうしても我慢がならなかった。
「一体誰なの? 絶対につきとめてやるわ。絶対に別れさせてやる」
誰かは知らないが、侍女であることは間違いない。首にして屋敷から追い出してやる。そうすれば女はアベルとは別れるはず。
フリーデリーケは一人で厩舎の近くに張りこみながら、鼻息を荒くしていた。
相手も用心しているのか、一週間張り込んでも姿を見せなかった。
もしや自分に気づかれたことがきっかけで既に別れたのかもしれないと、フリーデリーケが思い始めた頃だった。
いつもならとっくに帰り支度を始める時間になっても、アベルが厩舎に残っていた。
フリーデリーケが不審に思いながら、足音を忍ばせて厩舎に近づくと、何やら声が聞こえてきた。
息を潜めて、耳を立てていると、微かに聞こえてくるそれは女の声だった。
その瞬間、フリーデリーケの息が止まった。
頭の中が真っ白になるのを感じながらフリーデリーケが中を覗き込むと、山積みになった藁の上に一糸まとわぬ男女がいた。男の方はアベルだった。
日焼けしたアベルの体に、女の白い腕が絡みつく。
怒りで一気に頭に火が点きそうになりながら、フリーデリーケは何とかそれを我慢して、注意深く目を凝らして女の顔を見た。
長く豊かな金髪で隠れていた顔が、女が体を反らした瞬間に露わになった。
それはフリーデリーケの義姉マリアンヌだった。
「アベル! アベル!」
「マリアンヌ!」
フリーデリーケにすべてを見られているとも知らずに、二人は熱に浮かされたように互いの名を呼び合っていた。
フリーデリーケはマリアンヌが許せなかった。
結婚して夫のいる身でありながら、アベルと逢瀬を重ねるマリアンヌが許せなかった。
水害に苦しむ領民の為に働く兄を顧みずに、アベルとの情事に耽るマリアンヌが許せなかった。
目を閉じれば、日に焼けたアベルの逞しい体にまとわりつくマリアンヌの白い肌が脳裏に浮かぶ。
フリーデリーケは嫉妬で気が狂いそうだった。
「……許せない、あの女。絶対に引き裂いてやる」
フリーデリーケはぶつぶつと独り言を呟きながら机に向かい、長い手紙を書いていた。
何も知らない兄に、あの女の正体を教えてやらねばならない。
このままで終わらせるものか。
自分が味わった以上の苦しみをあの女に与えなければ気が済まない。
アベルをあの女から取り返さなければ。
フリーデリーケの狙い通り、アーレンベルク公爵がすぐに都に出てきた。
普段とても穏やかなアーレンベルク公爵の凍り付いたような表情を見た使用人達は、すぐにその理由を察した。フリーデリーケからの手紙を右手に握り潰したまま、アーレンベルク公爵は厩舎へ向かった。
フリーデリーケがその後を追う。
はたして二人はそこにいた。
厩舎の通路で、固く抱き合い、貪るように唇を重ねていた。
それを見たアーレンベルク公爵が二人の間に割って入り、「あっ」っと小さな悲鳴を上げたマリアンヌの前で、右手にフリーデリーケからの手紙を持ったままアベルの顔を殴りつけた。
全体重をかけるようなアーレンベルク公爵の拳を受けたアベルが、音を立てて通路に倒れた。
そして口の端から血を漏らしながら、その倒れた体を起こした。
「よくも……、よくも私の妻に手を出したな!」
怒りに震えるアーレンベルク公爵に、アベルが静かに言い返した。
「あなたの妻じゃない。マリアンヌは俺の妻だ」
そう言うとアベルは、アーレンベルク公爵の腹に拳を入れた。
うっと声を上げ、腹を抱えてアーレンベルク公爵がその場に膝をついた。
「……何を、……馬鹿なことを!」
アベルを睨みつけるアーレンベルク公爵の横にしゃがみ込んだマリアンヌが、目に涙を浮かべながら口を開いた。
「あなた、許して。真実の愛なの。わたくし達は心から愛し合っているの」
アベルに腹を殴られた苦痛に顔をしかめながら、アーレンベルク公爵が信じられないと言う表情で横にいるマリアンヌを見た。
「離婚してください。わたくしはもうアベルのものよ」
「……お前と、離婚するつもりはない。……お前は生涯何があっても私の妻だ! 離れることは許さない!」
声を荒らげたアーレンベルク公爵がマリアンヌの体をその手で囲い込むように抱きしめた。
アベルがアーレンベルク公爵からマリアンヌを奪い取ろうと近寄った時、フリーデリーケが男の使用人を引き連れて走って来た。
それを見たマリアンヌが声を上げる。
「逃げて、アベル!」
アベルが瞳を揺らしながらマリアンヌを見た。
「あなたが何処に居ても、離れていても、気持ちは変わらないわ。愛している。あなただけよ」
その言葉を聞いたアベルが、じりじりと後ずさりながらマリアンヌとアーレンベルク公爵を見て、そして意を決したようにその身を翻して走り去っていった。
「アベル! 行かないで!」
「追え! あの男を捕らえろ!」
アベルを呼ぶフリーデリーケの声は、アーレンベルク公爵の声にかき消された。
ただアベルとマリアンヌを別れさせたかっただけなのに。マリアンヌに痛い思いを見させてやりたかっただけなのに。
遠ざかるアベルの後姿を見ながら、フリーデリーケは涙を流していた。
そうしてアベルは出て行った。
アーレンベルク公爵が至る所に使用人を送り、彼を探させたが見つからなかった。
そのうちにアーレンベルク領に季節外れの大雨が降り、大勢の領民が家を流され苦しんでいるとの報告を受けたアーレンベルク公爵は、後ろ髪を引かれる思いで領地へ戻った。
アーレンベルク公爵が領地へ戻ってしばらく経った頃、一人屋敷に残ったマリアンヌが寝室で寝つけずにぼんやりとしていると、誰かがバルコニーに降り立つ音が聞こえた。
不安に怯えるマリアンヌの耳に、小さく窓を叩く音と、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「マリアンヌ、……マリアンヌ」
その愛しい男の声に、マリアンヌは寝巻のままベッドから起き上がり、窓に駆け寄った。
レースのカーテンを開けて見れば、月明りに照らされたアベルの顔がそこにあった。震える手でマリアンヌが鍵を開けて窓を開けると、そこからアベルが体を滑り込ませてきた。
「アベル、会いたかったわ」
「マリアンヌ、俺もだ」
二人は固く抱き合った。
やがて顔を上げたマリアンヌが、その顔を確認するようにアベルの顔を両手で挟み、その瞳を見つめる。
愛おしそうに視線を絡め合った二人は、どちらともなく唇を重ねて、激しく口づけを繰り返した。
そしてそのまま唇を重ねたままアベルがマリアンヌの体を抱き上げて、後ろにあるベッドへ運んだ。二人は、ほんの一瞬すら唇を離したくなかった。
唇を重ねたままマリアンヌはアベルの首に腕を絡ませた。
アベルは唇を重ねたままマリアンヌをベッドに横たわらせた。
やがて暗闇に二人の熱に浮かされたような声が響き渡る。
夜明け前、アベルはバルコニーから外に出て、また何処かへ去って行った。
そうして夜が更けると、またバルコニーから姿を現して、マリアンヌと愛し合っていた。
使用人達はまたすぐに二人の逢瀬に気づいたが、主のアーレンベルク公爵は既に屋敷にはおらず、かと言って領地から呼び戻したら、そのとばっちりを受けるかもしれないと考えて、皆が口をつぐんでいた。
マリアンヌとアベルは、こうしてまた以前のように周囲に知られながらも邪魔されること無く、逢瀬を続けていた。
しかし、それを見逃せない人間が一人だけいた。
フリーデリーケだった。
彼女は、アベルが屋敷を出てから沈んでいたマリアンヌが、いつのまにか以前のように満たされた顔で微笑んでいるのが気になっていた。
自分はアベルを失ってこんなにも悲しんでいるのに、何故マリアンヌが幸せそうでいられるのか、フリーデリーケは不思議でならなかった。
彼のことをもう忘れたのか、もう諦めたのか。
マリアンヌに尋ねてみたくてフリーデリーケが彼女の寝室を訪れた時、中から何やら声が漏れてきた。
気になったフリーデリーケは、ドアに耳をつけて、聞き耳を立ててみた。
聞こえてきたのは、互いの名を呼びながら情事に耽るマリアンヌとアベルの声だった。
フリーデリーケは、愕然としてマリアンヌの寝室の前の廊下に座り込んだ。
兄を裏切り、こんなにも自分を傷つける二人が、信じられなかった。
兄にすべてを知られて屋敷を出ても、追われる身であっても、それでもマリアンヌを求めるアベルが許せなかった。
どうしてマリアンヌなのか。自分では、その代わりは出来ないのか。
廊下に漏れ聞こえる二人の声を聞きながら、フリーデリーケは涙を流し続けた。
いつものように夜明け前にマリアンヌの部屋を出たアベルは、アーレンベルク公爵邸からずっと自分をつけてくる足音に気づいていた。
止まっては歩き、止まっては歩き。付かず離れずでついてくるその足音に業を煮やしたアベルが振り返った。
そこには、気まずそうに視線を彷徨わせているフリーデリーケが立っていた。
「何故、俺の後をついてくる? また告げ口でもするつもりか」
冷たく言い放つアベルに、フリーデリーケが慌てて首を振る。
「違うわ! そうじゃない。……わたくしは、ただ会いたかっただけよ、あなたに。会いたかったの。アベル、会いたかったのよ」
「何故?」
マリアンヌに対するのとは明らかに違うその冷たい態度に、フリーデリーケは心が折れそうになりながらも、それでも言葉を続けた。
「あなたが好きなの。……わたくしでは、お義姉様の代わりにはならない? お義姉様の代わりでもいい。あなたの側にいたいの」
一瞬息を呑んだアベルが、顔を背けながら答えた。
「俺が愛しているのはマリアンヌだけだ。他の女は必要ない」
「お兄様は決して離婚しないわ! あの人は生涯お兄様の妻よ!」
言い聞かせるように声を張り上げるフリーデリーケを、アベルが忌々しそうに睨みつけた。
「マリアンヌは俺の妻だ! 誰にも渡さない!」
「わたくしにして! 何でもあなたの言うことを聞く! あなたの欲しいものなら何でもあげるわ! あなただけのものになるわ! だから、お義姉様は諦めて! 代わりにわたくしをあげるから!」
フリーデリーケがアベルの胸にすがりついて悲愴な声を上げた。
アベルが無言でフリーデリーケの手を振りほどき、そしてそのままその場を立ち去った。
一人残されたフリーデリーケは、泣きながら崩れ落ちた。
通りで声を上げて泣き続ける彼女の周りを、いつの間にか男達が囲んでいた。
異様な気配を感じて顔を上げたフリーデリーケを、男達が笑いながら見ている。
「可哀想になあ、悪い男に泣かされちまって」
「俺達で慰めてやろうか」
「あんな冷たい男のことは忘れさせてやるよ」
青ざめて固まったフリーデリーケの口を塞いだ男達は、彼女の体を抱えて、裏通りへ引きずり込んだ。
フリーデリーケがアーレンベルク公爵邸に戻ったのは日が落ちてからだった。
朝から姿が見えない彼女を心配した侍女達が手分けして町を探し回り、人気のない裏道で呆然としている彼女を見つけたのだった。
その姿から、何があったのかは一目瞭然だった。
人目に付かないように彼女を屋敷へ連れ帰った侍女が、自分達の手には負えないと領地にいるアーレンベルク公爵に連絡を取った。
すぐに都に出てきたアーレンベルク公爵は、擦り傷だらけの妹の顔を見て、怒りに体を震わせた。
「……フリーデリーケ、……誰がお前をこんな目に遭わせた……?」
ベッドの傍らに膝をついて、アーレンベルク公爵は妹の手を握った。
ぼんやりとそれを見たフリーデリーケが、ぽつりと呟いた。
「アベル」
その名を耳にした途端、アーレンベルク公爵の表情が変わった。
「……アベル?」
「ええ、そうよ。アベルに抱かれたの」
「……アベルが、……お前を?」
虚ろな目の妹にそれ以上のことを尋ねることが出来ないアーレンベルク公爵は、後ろに控えている侍女に視線を向けた。
その険しい視線にびくっと体を縮めた侍女が、目を伏せながら恐る恐る口を開いた。
「……その、アベルは今、……奥様の寝室に」
「何だと!?」
大声をあげたアーレンベルク公爵が、フリーデリーケを部屋に残してマリアンヌの寝室へ向かった。
鬼気迫る顔で、こめかみに青筋を立てたアーレンベルク公爵が、斧を手にマリアンヌの寝室の前に立っていた。そして怒りのままに持っている斧を振り上げて、二人のいる寝室のドアをたたき壊した。
壊れたドアを蹴破りアーレンベルク公爵が中に入ると、シーツで体を隠したマリアンヌと、ズボンだけを穿いたアベルがいた。
「……おのれ、どうしてくれよう!」
アーレンベルク公爵が憤怒の形相でアベルの前に立ち、手に持っていた斧を怒りで震わせた。
ベッドの上でマリアンヌが悲鳴を上げる。
アベルは黙ってアーレンベルク公爵を睨みつけていた。
そこへふらふらとおぼつかない足取りでフリーデリーケが寝室に入って来て、兄とアベルの間に立った。
「……お兄様、わたくし、アベルと結婚します」
「なっ!?」
その言葉に驚いたアーレンベルク公爵が手に持っていた斧を床に落とした。
アベルは困惑した表情でフリーデリーケを見ている。
「だって、わたくし、アベルに抱かれたのですもの。彼の妻になります」
「フリーデリーケ、何を言っている? お前は私のたった一人の大切な妹だ。こんな男と一緒にさせるわけにはいかない」
アーレンベルク公爵は妹を諭すように、その肩に手を置いて顔を覗き込んだ。そんな兄に、妹は微笑みながら首を振る。
「お兄様、もう決めたの」
そう言うとフリーデリーケは、アベルの胸に頬を摺り寄せた。うっとりと夢見るような瞳でアベルを見上げる。
「愛しているわ、アベル。もう離れない」
「俺にそんな気は無い」
フリーデリーケの体を自分から引き離そうとするアベルの胸に、フリーデリーケが離されまいとしがみつく。
「あなたはわたくしを抱いたのよ!」
「俺は抱いていない! 俺が愛しているのはマリアンヌだけだ!」
「いいえ! あなたよ!」
「違う! 俺じゃない!」
声を張り上げて自分にしがみつくフリーデリーケを力づくで引きはがしたアベルは、ベッドの上にいるマリアンヌのもとへ駆け寄った。
「信じてくれ。愛しているのは、あなただけだ。俺はあなた以外は愛せない」
「ええ、知っているわ、アベル。わたくしもよ。愛しているわ」
床に転がったフリーデリーケを助け起こしたアーレンベルク公爵の目の前で、二人は熱く抱き合い唇を重ねた。
「酷いわ、アベル。あなたがわたくしを抱いたのに、無かったことにするつもりなの?」
半ば放心状態でマリアンヌとアベルを見ていたフリーデリーケがゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩いてバルコニーに出た。
大きく放たれた窓から夜風が吹き込み、レースのカーテンを揺らす。
その向こうで、フリーデリーケが手摺りにもたれてこちらを見ていた。
「そんなことはさせないわ。……アベル、あなたを逃がさない」
アベルを見ながら、フリーデリーケが体を後ろに倒した。
「フリーデリーケ!!」
駆け寄ったアーレンベルク公爵が手摺りから身を乗り出し、階下に横たわる妹の姿を見て悲痛な叫び声をあげた。
アベルは、アーレンベルク公爵邸の地下牢に繋がれていた。
たった一人の妹と愛する妻を奪われたアーレンベルク公爵が、烈火の如く怒り狂い、アベルを捕らえた。そして、嬲り殺しにするくらいでは自分の気が済まないと言って、彼を広場の公衆の面前で火あぶりにすることを決めた。
アーレンベルク公爵家の名誉よりも、たとえ家名に傷がついてもアベルを妻の前で晒し者にして処刑することを選んだのだった。それを国王に願い出て、そして許された。
アベルは、アーレンベルク公爵令嬢フリーデリーケを死に至らしめたという理由で火刑が決まった。
処刑の前夜、マリアンヌはアベルのいる地下牢を訪れていた。
薄暗い牢の中で足枷をつけられたアベルが、鉄格子越しにマリアンヌの体を抱きしめていた。
目に大粒の涙を溜めたマリアンヌが、アベルの黒い瞳を見上げる。
それを愛おしそうに見つめたアベルが、マリアンヌの唇に口づけた。
「愛している。マリアンヌ、あなただけだ。たとえこの身を失くしても心は永遠にあなたの側にいる。私の真心はあなたの物だ」
「アベル」
マリアンヌは熱く自分を見つめるアベルに心を震わせながら、彼の首に抱きついて唇を重ねた。
「アベル、抱いて。わたくしを離さないで。アベル、アベル」
翌日、アベルは足枷をつけられたまま広場に引きずり出された。
そこにはすでに名門公爵令嬢を殺した男が広場で処刑されると聞いた野次馬が、大勢集まっていた。
観衆の面前でアベルは全身を泥を塗った縄で縛られ、柱にくくり付けられていた。その足元には薪が山のように積まれている。
マリアンヌは夫であるアーレンベルク公爵に腕を鷲掴みにされて、広場の最前列に立っていた。
「お前が貞淑な妻であれば、こんなことは起きなかった。これはお前のしでかしたことの結末だ」
ぎらぎらと怒りに燃える目でマリアンヌを見たアーレンベルク公爵が、やがて右手を上げた。
その合図を見た男が、アベルの足元に火を点けた。
それを見た野次馬から一気に歓声が上がる。
熱さに顔を歪ませたアベルは、それでも最前列にいるマリアンヌを一心に見つめていた。苦痛に悶えながらも彼は、愛していると目で訴え続けていた。
マリアンヌは燃え上がる炎の向こうにいるアベルを、瞬きもせずに目を見開いて見ていた。その狂気をはらんだ眼差しに、隣で見ていたアーレンベルク公爵は言葉を失っていた。
「愛しているわ、アベル。あなたの愛を、わたくしが最後まで見届けるわ」
じりじりと迫る熱も火の粉も物ともせずに、マリアンヌは食い入るようにアベルを見つめていた。
そして、すべてが燃え尽き、灰になった。
催しが終わり、野次馬たちが歓声を上げながら広場を去って行った。
アーレンベルク公爵は呆然と立ち尽くす妻をその場に残して、屋敷へ戻った。
一人広場に残されたマリアンヌが、やがてがくりとその場に膝をついた。
煤で汚れた彼女の頬を、とめどなく溢れる涙が伝う。
小さく開いた唇から嗚咽が漏れる。
「アベル……! アベル……!」
次第に大きくなる声を抑えきれずに、マリアンヌが声を上げて涙を流していると、一人の男が彼女の前に足を止めた。
胸ポケットからハンカチを取り出した男が、それをマリアンヌに差し出した。
「どうか嘆かないで下さい。彼はきっと喜びのままに逝ったのです」
男の言葉にマリアンヌが涙に濡れた顔を上げた。
その男を何処かで見かけたことがある気がした。
「美しいあなたにこれほどまでに想われて、私は彼が羨ましい」
マリアンヌが瞬きをするたびにその目から大粒の涙が溢れ出る。
はにかむように微笑んだ男が、マリアンヌの瞳を見つめた。
「あなたの為なら、私も火あぶりになっても構わない」
マリアンヌが自分を見つめる男の瞳を見つめ返した。
彼女の目から一粒、二粒と涙が零れ落ち、――――そして止まった。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
ブックマーク、評価、感想など頂けると励みになります。
宜しくお願いします。